信頼熱い「弟」も兄に臣従誓う「従者」

実際、天正15年におこなわれた島津方勢力の軍事討伐では、秀長は日向(宮崎県)方面から島津領国へと進軍する豊臣軍の大将を務めた。また、戦後は秀吉の九州諸大名・小名配置に基づいた豊前(福岡県東部から大分県北部)・豊後・日向三カ国における諸領国の画定、大友家ら諸大名・小名の進退保証と領国経営の再建にあたって検地(税賦課基準を定めるための地域の実情調査)を実施させるなど領国統治における体制の整備にあたっている。

このほか、羽柴家の本城である摂津大坂城や山城淀城(京都府京都市伏見区)など豊臣政権の畿内統治における拠点城郭の普請も、秀長の監督のもと、諸大名や諸将が率いられておこなわれた。