森稔が遺した言葉「これからが始まり」

現在でも彼らの間で語り草になっている開発時の試みに、「六本木六丁目だより」という名のミニコミ誌の発行がある。開発の進捗状況や住民のインタビュー、意見などを社員が取材し、月に2度のペースで1軒1軒の家に配り歩く。藤巻など開発部の担当者は2週間に1度、全ての地権者に会報を手渡すことで、地元の情報や再開発の詳細を説明する機会を作っていった。

森ビル 
執行役員 企画開発1部 部長 
藤巻慎一

「地権者との交渉を担当する社員は、会社の全てをその場で代表する存在です。そして、僕たちがやっていることは、そこに住んでいる人の思い出とか歴史を根こそぎ変えてしまうかもしれない。だからこそ、賛成意見と反対意見の両方を掲載しました。住民への取材や原稿依頼を続けることで話題ができ、理解を深めてもらうきっかけができるので、編集作業は真剣そのものでした」

この「六本木六丁目地区再開発」において、地権者による準備組合が設立されたのは1990年。以後、度重なる計画区域の変更や反対運動を経て、東京都が権利変換計画を認可したのは99年のことだった。結果的に森ビルは実に17年の歳月を費やし、2003年の六本木ヒルズ開業を迎えることになったのである。

「(住宅棟の)レジデンスの車寄せで鍵の受け渡しをしたとき、地権者の方々がずらりと並んでいるのを見て、感無量の思いでした」と藤巻は言う。

その日、快晴の空の下では2月に植えたばかりの桜が花を咲かせていた。「おめでとうございます」と1人ひとりに声をかけながら鍵を手渡した彼は、計画の始まりから17年という歳月の長さを思ったものだった。

「まさか自分の会社員人生の90%以上の時間を、1つのプロジェクトに費やすとは思ってもいなかった。振り返れば、あの日は手首くらいの太さだった桜が、今はもう太ももくらいになっています。思えば1つの都市を開発するということは、そもそもそういうものなんですね」

また、地権者側の代表を務めてきた前述の原会長は、森稔と同じ頃に交わしたこんな会話が忘れられないと言う。

「地権者に対して森ビルが街の名前を募集し、『六本木ヒルズ』となることが決まった日のことです。400人の地権者全員が名付け親になったという気持ちで、私は稔さんに『日本一のヒルズにしてください』と頼んだんです。すると、彼は『世界一のヒルズになるよう努力しましょう』と言った。これからここを訪れる人たちを、共同の所有者である私たち1人ひとりが、世界一のおもてなしの心でもってお迎えしよう、と。つまり六本木ヒルズは建物が完成したこれからが始まりなんだ、と彼は言ったわけです。私はその言葉を稔さんの遺言だと今でも思っているんです」

(市来朋久=撮影)
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