そんななか同社のイメージを一気に変えたのが、アークヒルズなどの「ヒルズシリーズ」だった。森ビルはこれらを「ヴァーティカル・ガーデンシティ」(立体緑園都市)として開発。森稔は自著『ヒルズ 挑戦する都市』(朝日新書)でこの概念を、<複合用途に適したエリアや都心部の再生を想定した都市モデルで、職、住、遊、商、学、憩、文化、交流などの都市機能を縦に重ね合わせた、徒歩で暮らせる超高層コンパクトシティ>と定義している。
例えば低層の住宅やビルが密集した地域を超高層建築にまとめ、それによって生まれたスペースを人々の交流の場や緑地に活用すること――。
そもそも「共同建築」という同社の手法は、地権者に貸しビル建築後の利点を常に語りかけ、粘り強い交渉によって理解を得なければならない。そのなかで、どのようなオフィスが必要とされるかを考え、入居企業に建物の魅力を訴えかけることを繰り返してきた森稔が、「貸しビルづくりから街づくりへ」と興味の対象を広げていったのは自然なことだった。
そして、森ビルにとってその集大成と言える事業となったのが、テレビ朝日の社屋建て替えにともなう「六本木六丁目」の再開発事業=六本木ヒルズの開発だった。
流行語は「地上げ」難航した説得交渉
「何しろ坂の多い街でしょう。窪地には崖から豊富に湧水が流れ落ちてくる場所でね。1度は東京大空襲で焼けたけれど、その水を求めて終戦直後から人が集まってきた。煙突掃除屋さんの長屋があって、顔を真っ黒にした彼らがその水で夕方になると体を洗っていたものです」
六本木ヒルズの地権者で作る「六本木ヒルズ自治会」の原保会長は言う。
現在83歳である彼は再開発前、「原安太郎商店」という名の金魚店を営んでいた。まだ自宅の周囲に木が鬱蒼と茂り、フクロウの鳴き声やイタチの姿が見られた頃から、彼は六本木の街の変化を見続けてきた。
「家が次々に密集して建てられたから、防災上はとても弱い地域でね。道はくにゃくにゃの坂道だし、大型の消防車は入って来られなかったくらいですから」