松平定信の弾圧で戯作を止め、45歳で官僚に出世
狂歌仲間でもあり、遊興仲間、そしてパトロンでもあった土山の刑死は南畝を怯えさせたとされます。土山と親しかった南畝は土山の公金横領にまつわる件で取り調べを受ける可能性もあったからです。南畝は幸いにも取り調べや罪に問われることはありませんでしたが、この土山事件を契機にして狂歌や戯作の世界から去りました。南畝は用心深い性格だったと言えます(1787年に刊行された『狂歌才蔵集』からは土山と関係のあった平秩東作の狂歌を削除)。
南畝は土山に連座し、罪に問われることを恐れ、それを免れるために必死だったのです。人によっては南畝を小心と言うかもしれませんが、筆者はそこに南畝の人間臭さが感じられて好きです。
老中・松平定信による文武奨励令を皮肉った落首「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」は南畝の作との評判が立ちますが、それにより上司から尋問されたとの話もあります。それによって南畝が狂歌の世界から引退したとも言われるのですが、南畝が狂歌から離れたのは定信による寛政の改革が本格化する前のこと。よって、前述の落首の件とは関係がないのです。
文学の世界から去った南畝は学問に精進し、寛政6年(1794)、学問吟味(幕府が幕臣とその子弟を対象に実施した学力試験)に首席で合格しています(2年前の学問吟味では落第)。これにより褒美として銀10枚を賜り、寛政8年(1796)には支配勘定(勘定奉行の配下)に任じられます。南畝は45歳にして長い御徒生活に別れを告げることになったのです。
参考文献
・沓掛良彦『大田南畝』(ミネルヴァ書房、2007年)
・小林ふみ子『大田南畝』(角川文庫、2024年)
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