暇な公務員だったので本を書く時間があった

南畝は「早熟な天才」「神童」と評されることもありますが、新たな師匠の賀邸も南畝を見て「この児は大成する」と予言したとのこと。賀邸は儒学や国学を学び、更には「江戸六歌仙」の1人として有名だった人物。南畝が後に戯作や随筆、狂歌の世界にまで進出し名を高めたのは、少年期から賀邸のもとで学んだことが大きかったとされています。

南畝は17歳の時、御徒士として出仕しますが、仕事は楽でした。月に数回ほど出勤すれば良いからです。貧しく金はないが、余暇がたっぷりあったこともマルチな文化人・南畝の誕生にいくぶんかは寄与したと思われます。その後、南畝は生涯の師とも言うべき儒学者の松崎観海(太宰春台の門人)に入門し、漢学を学びました。そして18歳の時にデビュー作『明詩擢材』(明詩を題材にした作詩用語字典)を刊行しているのだから、南畝が「早熟の天才」と言われるのも頷けます。

明和4年(1767)、南畝は狂詩・戯文集『寝惚先生ねぼけせんせい文集』を刊行し、同書は大いに評判となりました。同書の序文は交流があった平賀源内が書いています。若くして、文壇の寵児と南畝はなったのです。

毛唐陳奮翰(大田南畝)著『寐惚(寝惚)先生初編』明和4年(1767)
毛唐陳奮翰(大田南畝)著『寐惚(寝惚)先生初編』明和4年(1767)(国文学研究資料館所蔵)(出典=国書データベース)

文壇の寵児となるも、収入が増えなかったワケ

南畝は狂歌や戯作の分野で有名となったこともあり、出世につながる儒学の分野からは離れていってしまいます。鮮烈なデビューを飾った南畝ですが、それで大田家が「夢の印税生活」を送ったかと言えばそうではありません。大田家は札差(蔵米取りの旗本や御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを生業とした商人)への借金で相変わらず苦しい状態でした。それは1つには当時は今とは違い、印税制度がなかったからです。本が売れたら版元はもうかりますが、著者が潤うわけではありません。戯作(小説)の分野では小銭は入ってきたようですが……。南畝が黄表紙や洒落本を次々と書いたのは「小銭稼ぎ」が目的だったとも言われています。少しでも家計の足しになればと考えたのでしょう。

貧窮の中ではありますが、南畝は23歳の時、妻を迎えます。下級の幕臣の娘・理与りよです。理与は南畝との間に一男二女を儲けました(結婚の翌年、理与は娘を産みますが、残念ながらその娘は生後1カ月ほどで亡くなっています)。

「べらぼう」の桐谷健太ともイメージが重なる若き日の大田南畝(四方赤良)
「べらぼう」の桐谷健太ともイメージが重なる若き日の大田南畝(四方赤良)、北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』天明6年(1786)(東京都立図書館蔵)より