蔦屋重三郎と交流し、吉原に通いつめる

貧乏生活だけならまだしも、南畝は妻に愛妾と同居生活をさせました。天下の有名人となった南畝は交友関係も広がり、次第に酒席や遊里にも出入りするようになりました。南畝が吉原遊廓に入り浸るようになったのは、蔦屋重三郎のせいとの説もあります。重三郎は著述出版の謝礼として、南畝を遊廓に招待したからです。南畝は天明3年(1783)の暮れに「今年三百六十日 半ばは胡姫の一酒楼に在り」との詩を作っていますが、1年の大半は酌婦のいる店で過ごしていたことが分かります。現代ならばそれだけで離婚ものでしょう。

しかも南畝は遊女を身請けすることになります。それは吉原遊郭「松葉屋」の新造しんぞう(客をとり始めた若い遊女)三保崎みほざきです。三保崎との交流は天明5年(1785)11月から始まったようです。当時、南畝は37歳であり、まさに「中年の恋」でした。南畝が三保崎を身請けすることができたのは天明6年(1786)7月のことです。金を工面してまで通い詰めた甲斐があったというもの。身請けされた三保崎は名を「お賤しづ」と改めます。

吉原の花魁を描いた礒田湖龍斎画
吉原の花魁を描いた礒田湖龍斎画、蜀山人(大田南畝)筆「遊女道中図」18世紀(東京国立博物館蔵)(出典=ColBase)

なぜ身請けした遊女を正妻と同居させたのか

しかし、南畝に妾宅を構えるお金は当然ありません。ではどうしたか。自宅を建て増しして、そこを「巴人亭」と名付けて、お賤を住わせたのです。つまり、妻妾同居の生活を南畝は始めたのでした。しかしその生活は8年ほどで終わりを迎えます。

寛政5年(1793)、お賤が世を去ったのです。お賤は30歳ほどであったと言います。それにしても8年もの間、正妻の理与はどのような想いで暮らしていたのでしょうか。理与は貧窮生活や夫の愛人との同居生活にもよく耐えた立派な女性との評価が与えられています。

さて、南畝が吉原通いをする上で資金提供をしたと推測されるのが、交流があった旗本の土山宗次郎です。土山は勘定組頭であり、幕府随一の蝦夷通として知られていました。土山は高禄でもないのに、大豪邸を築き豪遊し、遊女・誰が袖を大金(1200両)で身請けしています。土山は「田沼派」だったのですが、老中・田沼意次が失脚して、松平定信が権力を握ると没落します。「べらぼう」でも描かれたように、免官されただけでなく「行状よろしからず」ということで死罪となるのです(1787年)。遊女を身請けして妾にした事や、公金(500両)横領したことが罪に問われたのでした。