「人は沈むからいいことが起こる」
9月13日に開幕した「東京2025世界陸上」(新国立競技場)。日本はリレー種目を含む80人の代表選手が選出された。女子やり投げの北口榛花ほかメダルが期待される選手は多いが、筆者が中でも注目しているのが女子100mハードルに出る福部真子(日本建設工業)だ。
彼女は今回、並々ならぬ思いを抱いて本番に臨む。なぜなら、昨年11月に頸部リンパ節の炎症により発熱が続くという菊池病を発症。今シーズンはこの難病と戦いながら、レベルが急上昇している日本の女子100mハードル代表の座を目指してきたからだ。
その目標に到達するまでにはいくつもの大きな試練があった。「波のない競技生活を送りたいなと思うんですけど、やっぱり沈まないと良いことはありません」
報道陣の取材に静かに答えた彼女の短い言葉の中には、さまざまな苦い経験があったことがにじみ出ていた。
インターハイ3連覇とその後の苦悩
福部は今年10月28日に30歳を迎える。20代最後の大舞台となるのが東京世界陸上だ。
小学校時代に地元・広島のクラブチームに入って競技を始めると、中学時代は4種競技で全中を制覇。まさに破竹の勢いで、皆実高校でも100mハードルでインターハイ3連覇を成し遂げている。ところが、さらなる飛躍を期待されたエリート選手は、日本体育大学の4年間では高校時代のベスト(13秒57)を13秒37までしか短縮できず、苦しい時期を過ごした。
このスランプ期で心が折れかけたこともあったが、福部は輝きを失うことはなかった。実業団で調子を少しながら取り戻すと、その5年目となる2022年の日本選手権で初優勝。同年7月のオレゴン世界陸上では準決勝に進出して、12秒82の日本新記録を樹立した。同年9月の全日本実業団対抗選手権で12秒73まで日本記録を短縮している。大学からの苦節の約10年間があったからこそ、自分の能力を全開花させることに成功できたのだろう。
2023年の日本選手権は上位4人が横一線でゴールする大混戦となり、福部は4位。惜しくもブダペスト世界陸上の出場を逃したが、転んでもただは起きない、の言葉通り、昨年は日本選手権を2年ぶりに制すと、7月には自身が保持する日本記録を更新する12秒69を叩き出す。そしてパリ五輪は予選を通過。準決勝でも5着と健闘した。
日本女子短距離勢がまだ到達していない世界大会のファイナル進出を狙えるところまで成長した福部だが、ここで彼女を待ち受けていたのはつゆほどにも想像もしなかった病魔だ。
昨年10月中旬に体調を崩し、受診すると、医師は耳慣れない病名を口にした。発熱やリンパ節の腫れを伴う原因不明の「菊池病」を患っていたことが判明したのだ。「アスリートとして弱みを見せたくないし、隠したいという思いもあった」という福部だが、同年12月に自身のインスタグラムを更新。菊地病を発症して、治療中であることを明かした。
「普通の生活が送れるのか」という状況だった。地べたを這う思いで世界大会のファイナル進出、メダルへの期待ができるところまで上がってきたにもかかわらず、選手ではなく、一般人としての生活も危ういレベルに突き落とされるなんて……。「まさか。私が。なんで、私が」。そんな不安な思いを抱えながらも、何とか競技復帰を目指すも、「一歩進んでは3歩、4歩下がっての繰り返し」という日々を過ごした。
「(発病から約半年間の)3月まで身体を(日常生活を送れるところまで)戻すことに力を注いでいました。『グラウンドに戻れるのか』というのと、戻れたとしても『どれだけ動けるのか』。しかも、タイミングが悪いことに、自分がこういう状況で東京世界陸上の参加標準記録はパリ五輪の12秒77から12秒73へと基準が難化しました。これは私の自己2番目のタイム。そこに私は果たして近づけていけるのか? 自分が目指していいのか? と自問自答しました」
グラウンドに立てるようになったが、体調がしんどい日も多く、思うようなトレーニングを積むことができない。福部は4月に入っても試合に出られない状況が続いた。それでも7月上旬の日本選手権は12秒93(向かい風0.4m)で3位に滑り込む。参加標準記録を突破すれば、東京世界陸上の代表に手が届くという状況に持ち込んだ。

