傑作「美人大首絵」が生まれた意外な経緯

寛政2年(1790)5月、定信による町触が出された。内容は、好色本を新規に制作するのは好ましくない、草双紙に昔のことに装って不謹慎なことが書かれることが増えた、というもの。後者はまさに、喜三二と春町の著作を指している。蔦重は「出る杭」として打たれる対象になったのだ。

それなのに翌寛政3年(1791)、吉原や深川を題材にした山東京伝の洒落本を3冊刊行し、今度はあえて前者に抵抗した蔦重。結果として身代半減、すなわち財産の半分没収という手痛い処分を受け、京伝も手鎖50日の刑に処されてしまう。

「江戸の花・京橋名取・山東京伝像」鳥橋斎栄里筆(18世紀)
鳥橋斎栄里筆「江戸花京橋名取 山東京伝像」(18世紀)(写真=メトロポリタン美術館/CC-Zero/Wikimedia Commons)

事ここに至って、さすがの蔦重も戯作本の出版を控えざるをえなくなった。それでも本の仕事を続けるべく、巻き返しに刊行したのが、歌麿による美人画だった。ただ、巻き返すには、それなりのインパクトが必要だ。そこで考案されたのが、上半身やバストアップを大きく描いた「美人大首絵」だった。

当時、この手のブロマイド的な錦絵は役者絵にかぎられていた。だが、それを美人画に適用したからといって、簡単に売れるものでない。そこで、さまざまな工夫が凝らされた。それまでの美人画は髪型や装いの変化で見せるものだったが、アップになった分、わずかな仕草や顔の傾きなどによって、人物の性格や立場までが読みとれる絵が「大首絵」として登場したのである。

「会いに行けるアイドルのブロマイド」

ただ、だれにでも描けるものではない。歌麿の力量があってのことだった。若い女性でも既婚女性でも、その心情をも浮かび上がらせてしまう力量は、歌麿以外の画家には望めず、そのことを蔦重が見抜いていたということにほかならない。

寛政4年(1792)に刊行された初の美人大首絵シリーズ『婦人相学十躰』は、描かれた一人ひとりの女性の心情を見る人に想像させる。半身像のなかで、少しの手の動きや身体の傾き、微妙な表情の違いを描き、その女性の性質や感情を見事に伝える。

蔦重と歌麿が組んだなかでも、とりわけ大ヒットしたのが、難波屋おきた、高島屋おひさ、富本豊雛の3人を1枚に描いた『当時三美人(寛政三美人)』だった。寛政5年(1793)ごろに刊行され、前者2人は茶屋で働き、最後の1人は富本節の名取で、まさに身近なアイドルのブロマイドとして評判を呼んだ。

喜多川歌麿筆・寛政三美人:富本豊雛(上)、難波屋おきた(右)、高島屋おひさ(左)(写真=トレド美術館所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
喜多川歌麿筆・寛政三美人:富本豊ひな(上)、難波屋おきた(右)、高島屋おひさ(左)(写真=トレド美術館所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

だが、蔦重はどこまでも「出る杭」として目をつけられた。寛政5年、絵に評判の娘などの名を入れてはいけないという町触が出された。そこで歌麿が実践したのは、名前を「判じ絵」にして示すという洒落た趣向だった。たとえば「難波屋おきた」なら、菜っ葉を2杷描いて「なにわ」、弓矢の矢で「や」、海の沖で「おき」、田んぼで「た」、と表現した。