史実でも家庭を持っていたのか

実際、『画本虫ゑらみ』が刊行されたのと同じ天明8年、蔦重は歌麿の笑い絵、すなわち春画を集めた本『歌まくら』も刊行した。そこに至る経緯が第35回「間違凧文武二道」(9月14日放送)で流される。

歌麿は蔦重に、以前は描けなかった笑い絵を描いて届けた。そのときひとりの女性を連れてきた。それは第30回「人まね歌麿」(8月10日放送)で、歌麿が助けようとした女だった。歌麿は彼女が男に襲われていると思い、その男を石で滅多打ちにし、蔦重に止められたのだが、実際には、歌麿の母とその情婦の幻影を見ていただけで、男は女性を襲っていたわけではなかった。

ともかく歌麿は、その「おきよ」という耳が聞こえない女性と所帯をもつという。「ちゃんとしたい」「おきよを幸せにしたい」と語る歌麿に、蔦重は満足する。歌麿はおきよをモデルにして笑い絵を描いた、というのがドラマにおける設定なのだろうか。

現実には、蔦重は歌麿を吉原に送り、動植物に対するのと同じ観察眼で、男女の営みを観察させたのではないだろうか。実際、そう考える向きが多い。だが、いずれにしても、歌麿にはこの時期、女性をじっくり観察する機会があったはずで、そのことがのちの「美人大首絵」につながったと考えられる。

喜多川歌麿「雨乞いの小町(七人の小町)より」クリーブランド美術館所蔵
喜多川歌麿 筆「雨乞いの小町(七人の小町)」より・クリーブランド美術館所蔵(写真=Bequest of James Parmelee/CC-Zero/Wikimedia Commons)

では、史実の歌麿に家庭はあったのだろうか。

定信によって自殺に追い込まれた絵師

じつは、歌麿がどのような暮らしぶりの人物であったのか、なにひとつ伝わっていない。妻がいたのか、子がいたのか、正確なところは一切わからない。だから、「おきよ」とのエピソードもみな脚本家の創作である。この時代、武士を中心とする権力者階級を除くと、系図等によって記録を残す習慣がなく、町人階級は私生活の記録が残りにくかったのだ。

しかし、おそらく歌麿には妻子がいたであろうと考えられている。その理由は後述するが、まだ「べらぼう」では描かれていない歌麿の画業を追っていると、自然とそういう結論に至る。

田沼時代の重商主義のもとでは、出版にも比較的自由な主題が許されていた。だからこそ蔦重の成功があったのだが、松平定信の寛政の改革下では、正反対に取り締まりが厳しくなった。

蔦重はそれに抵抗し、世相をからかってやろうと考えたのだろう。天明8年(1788)には朋誠堂喜三二作『文武二道万石通』、翌寛政元年(1789)には恋川春町作『鸚鵡返文武二道』と、定信の文武と倹約の奨励を揶揄した黄表紙を刊行した。

だが、作者がふたりとも武士だったことも災いし、喜三二は戯作から身を引かざるを得なくなり、春町は死に追いやられるという悲劇に見舞われた。