NHK連続テレビ小説「ばけばけ」で高石あかりさん演じるヒロインのモデルとなった小泉セツとはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「松江藩家老の血を引くが、士族の没落により11歳から働いて家を支えた。そんな彼女には幼少期の忘れられない思い出があった」という――。
上海国際映画祭の会場で撮影に応じる、映画『夏の砂の上』に出演した(左から)オダギリジョーさんと高石あかりさん、右は玉田真也監督=2025年6月21日、中国上海市
写真提供=共同通信社
上海国際映画祭の会場で撮影に応じる、映画『夏の砂の上』に出演した(左から)オダギリジョーさんと高石あかりさん、右は玉田真也監督=2025年6月21日、中国上海市

朝ドラのヒロインは松江藩の名物家老の孫娘

松江城北側の堀に沿って続く500メートルほどの通りは「塩見縄手」と呼ばれる。堀尾吉晴が慶長12年(1607)から同16年(1611)にかけて松江城を築いた際、城地に選んだ亀田山とその北側の赤山のあいだを掘削し、内堀とそれに並行する道路を敷設。道路沿いに屋敷地を造成したのにはじまる。

「縄手」とは縄のように一筋に延びた道のことで、それに沿って家中屋敷(大名に仕える家臣と家族が住む屋敷)が並んでいた。いまも昔ながらの板塀が続く。縄手の堀側には、造成当時に植えられた松の巨木がいまも枝を垂れる。ここは昭和48年(1973)に松江市伝統美観保存地区に指定され、同62年(1987)には建設省による「日本の道100選」にも選ばれた。

塩見縄手にて
塩見縄手にて(写真=663ハイランド/CC-BY-2.5/Wikimedia Commons

ところで、「塩見縄手」という名の由来である。縄手に沿って続く板塀のあいだに建つ長屋門の奥には、江戸中期に建てられた武家屋敷がいまも残り、公開されている。江戸時代には500石から1000石の武士が住み、ときどき屋敷替えが行われたので、特定の武士の屋敷とはいえないが、一時は塩見小兵衛という武士が住み、その人物が異例の昇進を遂げたために、讃えて塩見縄手と呼ばれるようになった。

この塩見家は松江藩の家老で、幕末にはここより南方、松江城二の丸および三の丸と堀を挟んで向かい側に屋敷があった。そして、上に記した小兵衛が塩見家5代目で、6代目の増右衛門は、NHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロイン、松野トキのモデルとなった小泉セツの祖父だった。

セツはあるエピソードをたびたび聞かされ、祖父のことを誇らしく思っていたのだという。

藩主に対して祖父が行ったすごい行動

セツは自筆の「オヂイ様の話」にこう書いている。

「私の子供の時にお友達ちの家へ行くとそこの老人からよく御祖父様の話を聞かされました。あなたのお祖父様は忠義なえらい方で御座いました。私はそう聞くと自らがほめられた様にほこりを感じてなんとなく愉快でした。母方の御祖父さん塩見増右エ門様は役のついてゐる家老で禄高は千何百石召使は三十人近く、屋敷は殿町二の丸のお堀の前でした」

どのように「忠義なえらい方」だったかだが、セツの原稿には続いて、忠義の具体的な内容が概ね次のように記されている。

ある日、江戸で大事件が発生し、「増右エ門様俄に病死」という早打ちが松江に届けられたという。なにが起きたのか――。9代藩主の松平出羽守(斉貴)はわがままで贅沢や放蕩をきわめ、酒と女と乱暴についての逸話が残るほどだった。増右衛門はこれを見逃すことができず、御前で諌めたが聞き入れられない。ふたたび諫言したがダメ。そこで覚悟のうえで3度目の諫言をしたという。

その際、増右衛門がただならぬ様子だったので、出羽守は家臣に、家老詰所まで様子を見に行かせた。すると、閉ざされた襖の向こうで、増右衛門はすでに息絶えていたという。じつは、増右衛門はこっそり腹を切ったうえで、傷に白木綿を固く巻きつけて出羽守の御前に出向き、死をもって諫言していたのだ。さすがの出羽守も藩主を退き、頭を剃って謹慎したという。