やりにくかったに違いない「まんがの先生」
ここからは若干ストーリーに触れます。
冒頭でも書かせていただきましたが、今回私が出演することになったのは、やなせさんと師匠談志がかつてNHKで「まんが学校」という番組で共演していたご縁があったからです。
「まんが学校」は1964年4月6日から1967年3月27日まで3年間にわたって放送された人気番組でした。談志が司会で、やなせさんが出演していた子供たちに漫画の指導やクイズを出題するという形式で、毎週、当時大人気だった手塚治虫さん、馬場のぼるさん、石ノ森章太郎さん、水森亜土さんらがゲスト出演していました。
この番組に出演していたときのやなせさんは、代表作『アンパンマン』を生み出す前。1962年に43歳で「手のひらを太陽に」(作曲・いずみたく)がNHK「みんなのうた」で放送されるなど作詞家や、グラフィックデザイナーとしてその世界だけでは名前は知れてはいましたが、漫画家としてはまだ全国的には認知されていない時期でありました。そんな中で、まんがの先生役を引き受けることには複雑な思いがあったと推察します。
しかも共演する司会者は、立川談志。当時は真打ち昇進二年目の28歳、まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いでありました。17歳も年下の生意気盛りの落語家です。実際、やなせさんは談志を「生意気が芸になっている」と評していたそうです。
さぞ、やりにくかったでしょう(笑)。
「紙に描くのだけが漫画じゃない」
しかし、やなせさんの凄さとは「仕事を断らないところ」にあるのではと思います。談志は生前、やなせたかしさんから聞いた話としてご長男の松岡慎太郎さんに次のように話していたそうです。
「『昔は、漫画は紙(本や雑誌)に描くものと思っていたら、最近はこの皿に描いてくれとか、コップに描いてくれといった注文が来るようになった』と言っていた。今でいうキャラクターデザインのハシリだった」
柳瀬博一著『アンパンマンと日本人』(新潮新書)によると、やなせさんは「ご当地キャラ全国で200も作った」とのことでしかも「これが全部ただ、あっはっは」と笑うくらい多くのデザインをほぼボランティアでやった……と記されています。


