「ヤマトさん、助けて!」。2011年3月11日、東日本大震災当日。津波に襲われたヤマト運輸気仙沼支店のSDたちが屋上に逃れたとき、黒い水に埋まった通りの向こうの家から叫ぶ女性の声が聞こえた。SDたちは水に飛び込み、とり残された3名を救助した。「目の前の救える人を救いたい一心」だったという。
「あの言葉は私も心に残っています。ヤマトのあり方を象徴しました」
グループを統括するヤマトホールディングス(HD)会長の瀬戸薫はそう話す。37年前、宅急便誕生の際、小倉昌男(当時ヤマト運輸社長)から準備を命じられたチームに28歳で参加。クール宅急便の開発も担い、ヤマトのDNAを受け継ぐ男には自分たちが担うべき役割が見えている。
日本は将来に向け、少子高齢化、そして、空洞化による国内産業の衰退という2つの大きな「困りごと」を抱えている。解決の主役は従来、行政や企業自身で、ヤマトの属する物流業界は裏方だった。しかし、表舞台のプレーヤーたちの力だけでは限界が見えてきた今、黒衣役が解決の担い手になろうとしている。松本も、ザキも、そこに名を連ねる。
まずは松本の物語からだ。08年春、盛岡駅前センター長だった松本は、88歳の1人暮らしの老女宅に宅急便を届けた。3日後、亡くなっているのが発見される。孤独死だった。死後3日。衝撃を受けた。本人がそのときの状況を話す。
「おばあちゃんは息子さんからの荷物が楽しみで、車の音が聞こえると玄関でニコニコ待っているのに、その日は奥から『そこに置いてって』と。帰り際も縁側から手を振るいつもの姿が見えない。おかしいな。でも上がるわけにもいかず、『またね』と声をかけるしかなかった。亡くなったのは多分、その晩で、最後に話をしたのは私だったかもしれません」