兄・伊周は37歳で没したが
実際、伊周は道長の出世をねたみ、一条天皇の願いで復権しても、すぐに呪詛事件を起こしては排斥され、寛弘7年(1010)正月に37歳で没した。一方、隆家は兄のようにネチネチと執着するのではなく、『大鏡』に「世の中のさがな者」(天下におけるタチが悪い荒くれ者)と書かれたような性質だったことが、結果的に幸いしたようだ。
結論を先に言えば、隆家は平安時代最大の対外危機から日本を救った。むろん、それは道長を救ったことになる。ドラマで安倍晴明はそのことを予言していたのである。
じつは、九州北部では9世紀後半以降、物騒な状況が続いていた。朝鮮半島で新羅(935年滅亡)の勢力が弱まるにつれ、海外から異賊が押し寄せるようになっていた。このため博多に警護所をもうけて対応していたが、道長が剃髪して出家した寛仁3年(1019)3月からの被害は、それまでの比ではなかった。
日本の危機につながりかねなかったこの事件については、大宰府からの報告が『朝野群載』に記され、ドラマで秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』にも書かれているため、状況が比較的よくわかる。それによれば、正体不明の異賊の兵団は、まさに道長が出家したのと同じ月の3月28日、対馬と壱岐に来襲した。
襲ってきた「刀伊」の正体
武装した異賊は50余隻の船団で島に押し寄せ、老人や子供は殺害し、家は焼き、家畜は食べ、成人は捕虜として拉致したという。対馬では18人が殺され、116人が拉致され、牛馬199頭が殺されて食われたという。壱岐でも壱岐守の藤原理忠をはじめ148人が殺害され、239人が連れ去れたとされる。
4月7日には筑前(福岡県北西部)の沿岸各地に侵攻。8日には、異族は博多湾の能古島を攻略してここに拠点を置いた。そして、9日には博多に侵攻したのである。そうこうするあいだに、殺された人の数は365人に達し、1289人が拉致されたという。
この異賊は、侵攻中は日本にとって正体不明で、高麗から攻めてきたと考えられていたようだが、のちに大宰府は「刀伊国」の兵だったと報告している。これはのちに金や清を建国する遊牧民族「女真」の一派で、中国大陸における彼らの動きの一端として、活動が東北アジア沿岸部におよんだものらしい。
9日に博多の警護所を襲撃した刀伊軍は、大宰府軍と激しい戦いを展開したが、10日と11日は神風を思わせる強風が吹いた。こうして刀伊軍が能古島から動けない隙に、大宰府軍は船団を増強し、沿岸に兵を手厚く配した。刀伊軍は12日の夕刻に侵攻したが、撃退され、13日にも肥前(佐賀県と壱岐、対馬を除く長崎県)の松浦を襲ったが退けられた。結局、博多は守られ、刀伊軍は九州北部の沿岸から逃げ去った。