大宰府にこの男がいてよかった
隆家が就任していた大宰権帥とは、大宰府の長官である大宰帥に続く長官代理だが、大宰帥は皇族の名誉職なので権帥が事実上の長官だった。中納言以上の者が兼ねるのが通例で、隆家は従二位中納言として兼官し、現地に赴任した。
おそらく「さがな者」には気骨があったのだと思われる。都でも道長に妥協せず、だから中納言に留め置かれたのだと考えられるが、九州ではその強さが功を奏した。『大鏡』によると、隆家は9カ国の人々に声をかけ、大宰府に仕える人も動員して闘わせたそうだが、大宰府の事実上の長官として、北九州の人心を掌握していないかぎり、彼らを闘わせることなどできなかっただろう。
隆家に率いられて闘った人の名として、『小右記』には平為賢、藤原助高、大蔵光弘、藤原友近、源知、大蔵種材……といった名が列挙されている。
このうち平為賢については、「光る君へ」の第43回で、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)の一人娘、賢子(南沙良)と恋仲になっていた双寿丸(伊藤健太郎)が「俺、来年、大宰府に行く。殿様の為賢様(神尾佑)が藤原隆家様に従って大宰府に下るのについていくのだ」と語っていた。
平為賢が九州に下ったのがこのときだったのかどうかはわからない。ただ、このころ北九州には、上に記した名のように、貴族の末裔で土着して、戦闘にも慣れた連中が大勢いたのはまちがいない。隆家は彼らをまとめることができたのである。
自分の出世よりも他者への恩賞
『大鏡』には隆家について「大和心かしこくおはする人」と、政治家としての判断力や決断力を最大限にたたえる言葉で評価している。中央での出世には恵まれなかったが、兄とは違って、実力を備えた貴族であり政治家だったようだ。
隆家らに撃退された刀伊軍は、その後、朝鮮半島の高麗に攻め寄せたが、そこでも退けられた。そのとき捕虜になっていた日本人が200人ほど救出され、日本に送還されたが、隆家は高麗からの遣いに「三百両」の砂金を送るなど、適切な対応をしたという。また、戦功があった人のリストを中央に渡し、彼ら北九州の土着勢力への恩賞が行き届くように、配慮を欠かさなかったという。
こうした点を見ても、隆家が人心を掌握するすべを心得ていたことがわかる。
むろん、それだけの武功があれば、上級貴族にも評価する人もいて、『大鏡』によれば「大臣や大納言に昇進させたらどうか」という声も上がったそうだ。しかし、「御まじらひ絶へにたれば(中央との交流が絶たれていたので)」、実現しなかったという。それでも、他者への恩賞についてはあきらめない。やはりなかなかの人物だったようだ。