かつてのネットメディアと同レベル
2010年代の初頭に、あるインターネットニュースメディアの役員クラスと話していたときに、堂々と言われたのはこんな話だった。
「うちは発表記事であっても確認のために広報に電話を入れるように言ってます。オールドメディアの方法も取り入れているんですよ」
私は内心、呆れながら話を聞いていた。基本中の基本でしかない話をそんなに堂々と語られたところでなんの意味もないと思ったからだ。電話で確認する程度の仕事は多くの人にできるもので、価値を生まないものだ。新聞に限らずテレビや週刊誌も含めて記者であれば、そんな当たり前のことは誰も評価しないというのが業界の不文律だ。
これも当たり前のことでしかないが、プレスリリースを横並びで報じるのは紙面を埋めるだけの記事にしかならないからだ。どこにでも出ている情報になんの価値もない。
従来の業界の価値基準に照らし合わせれば、リリースを起点に少しでもリリースに書いていないことを聞き出すことができればようやく及第点、さらに隠された事実を掘り起こすことにつながれば初めて少しだけ評価される。より評価されるのは、リリースが発表される前にきちんと取材し、しっかりとした裏付けをもとに書いてしまうことだ。それも一発で終わりではなく、継続的かつ他社も追いかけてくるような話をいくつ出しているかが評価のポイントだ。
これが当たり前の規範だった。今でこそ独自取材の価値を重視するネットメディアも増えてきたが、当時のネットメディアはそのくらい取材力もレベルも低かったという証左である。
しかし、まさか全国紙がかつてのレベルの低いネットメディアと同じようなことをやってしまうとは……。この衝撃は大きい。
誤報の中でもっとも恥ずべき誤報
問題は大きく分けて2つある。第一に誤報の質という問題、第二に新聞社のブランド毀損という問題だ。
誤報といっても中にはいろいろな種類がある。政局取材のように多方面に積み上げた結果、最後の最後で読み違えることもあるし、事件取材でもよくあるのが関係を築き上げてきた取材先が結果的に偽情報をつかまされており、裏付けるための取材が甘かったがために誤報につながるということもある。
こうした誤報も単純に擁護はできないが、まだ理解可能な範囲だ。なぜなら、記者は足元の取材という地道な仕事を疎かにしていない。結果として間違ってしまったことは重大だが、過程に大きな間違いはない。
逆にもっと程度の低い誤報もある。相手の言っていることを理解できず、勘違いしてしまったまま記事にしてしまった、あるいは聞き間違いや誤字があったというものだ。私もやらかしたことがある単純なミスでも誤報は誤報だが、比較的再発防止策はとりやすい。
私が誤報の中でもっとも恥ずべきだと考えているのは、偽情報に飛びついて取材をするという基本を怠ったまま掲載されてしまう誤報、つまり今回の毎日新聞がやってしまったパターンだ。