※本稿は、佐藤優・西村陽一『記者と官僚 特ダネの極意、情報操作の流儀』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
「俺は全共闘だった」とアピールする人ほど…
【佐藤】いままで黙っていたんですが、モスクワで再会してからしばらくして、私も西村さんに対して、ほかの記者たちとは違うかたちの強い関心を持っていたんですよ。
【西村】怖いね。なんでしょう。
【佐藤】一つは、学生時代に東京大学新聞の記者をやっていたということ、そして当時、東大の中にも広く浸透していた旧統一教会やその学生団体の原理研究会、さらにその系統の東大新報という新聞と対峙していたということです。私も同志社時代には原理とかなりやり合ったのだけれど、一連の学生運動のことは外務省時代には完全に封印していました。そういう話をしても武勇伝として受け止められるだけなので。しかし、学生運動の経験は、外交官になってからもムダにはならなかった。学生運動でも永田町の政治でも、国際政治でも似ているところがあるからです。
面白い傾向があって、大した運動をしていないやつに限って「俺は全共闘だった」とアピールするんだよね。だから西村さんとある程度親しくなって、個人的な話をするようになって、東大新聞の話を聞いたときに、同じような時代に、同じような空気を吸っていた人なんだろうと思った。
もう一つは、モスクワで、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)についていろいろと語り合ったこと。
ジャーナリズムの力を信じて記者になった
【西村】そうそう。たしか、東大新聞の記者だった頃、来日したランウェジ・ネングウェクール氏(映画『遠い夜明け』の主人公スティーヴ・ビコ氏とともに「南アフリカ学生機構」を設立した人物)にインタビューして記事を書いたのをきっかけに、反アパルトヘイト運動組織に出入りしたり、大学でその種のサークルをつくったり、卒業前にロンドンの反アパルトヘイト組織を訪ねたりしたというような話をしましたよね。
【佐藤】そうだね。さらにその後も、永田町を担当する政治記者なのに、来日したネルソン・マンデラ氏(南ア大統領)に単独会見したというエピソードの持ち主でもあることを知ったわけです。だから、自分のテーマを持っている人だという印象だった。そういった話からも、朝日新聞が大企業だから入ったというタイプとは違うと思っていました。
【西村】たしかに、ジャーナリズムの力を信じて、記者になりたくてなったと思います。