退職を切り出して3カ月後の7月末、国土交通省を退職。家業の豆腐店にもどるつもりはなかった。平川さんには、やりたいことがあった。

キャリア官僚としての道を歩んできた平川さんに、なにがあったのだろうか。その歩みをたどる。

「豆腐屋にだけはなりたくなかった」

1971年、佐賀県武雄市に生まれた平川さんの実家は、祖父から続く豆腐店だった。豆腐職人の父を母も支えていた。

父は「頭が悪ければ豆腐屋になってもいいけど、他に行くところがあるならそっちへ行け。豆腐屋になんかならなくていい」と息子に話していた。中学生のころから店の手伝いをさせられてきた父は、しぶしぶ豆腐店を継いだ。朝早くから白い長靴に前掛け姿でトラックに乗り込み、得意先に豆腐を届けてまわる両親を見て育った平川さんもまた、「格好悪い豆腐屋にだけはなりたくない」と思っていた。

写真提供=平川さん
昭和50年代に撮影された工場の様子

地元の進学校から九州大学工学部土木工学科に進むと、「大きくて長く残るものを作りたい」と、橋やトンネルなどの構造物を学べる学部を専攻した。大学院を修了するころには、「よりスケールの大きなものを作る方が楽しそう」と考えるようになった。「まちづくり」に携わる仕事に就こうと、1996年、運輸省へ入省した。

新潟でトンネルの耐震設計や意匠設計を担当すると、1997年、霞ヶ関本省へ異動。港湾局では、深夜2~4時まで働きタクシーで帰る日々が、2年以上続いた。仕事に追い込まれた平川さんは、新宿パークハイアットビルの最上階ラウンジから東京の街を一望しては、「いつかこんな居心地のいい空間を作りたい」と思いを馳せた。

その後、航空局での業務は落ち着き、先の人生について考えるようになった。時は、ITバブル。堀江貴文をはじめとした同世代の起業家たちが脚光を浴びていた。

腰掛けのつもりだったが…

27歳の時、転機が訪れる。

当時の交際相手(現在の妻)の弟が、事故により亡くなったのだ。身近な若者の突然の死は、平川さんに大きなショックを与えた。

「元気に生きていても人はいつ死ぬかわからない。人生を振り返った時に、本当に今の生き方でよかったと思えるんだろうかと考え始めたら、いてもたってもいられなくなって。起業して自分の可能性を試したいという気持ちが止められなくなったんです」

2000年5月、連休明けに上司に退職を申し出た。

その時は、実家の豆腐店で1年経営を学んだ後、東京へ戻ってITで起業し、稼いだ資金でリゾートを作ろうと考えていた。豆腐店は、あくまでも腰掛けのつもりだった。それでも、決算書や会社の資料を見せてくれた父は、息子が会社をサポートすることを、いち経営者として喜んでくれているようにも感じられた。息子の将来を案じる母からは、「帰ってくるな」と泣かれた。

写真提供=平川さん
昭和60年代に撮影された工場の外観
写真提供=平川さん
スーパーなどへの卸が中心だった