頑張るほど儲からない

2000年8月、営業部長として入社した。数字を分析して経営状態を把握していくと、状況が思っていたより厳しいことがわかってきた。

入社する3年前、主力取引先の地元スーパーが倒産し、売り上げの約4割を失った。売り上げを支える絹豆腐や木綿豆腐といった安価で大量に販売する商品の売り場がなくなることは、豆腐店にとって死活問題だった。売り場を開拓しようと卸経由で取引を増やした結果、金払いの悪い取引先が増え滞納や未払いが発生していた。

この時、会社は実質、債務超過に陥っていた。金融機関からの借入も断られ、毎月の借金を返済するために父は、消費者金融から借りていた。月末になると督促の電話が鳴った。目の前の1カ月を乗り切れるかどうかすら見えない状況に、母はげっそりしていた。

苦しんでいたのは実家の豆腐店だけではなかった。

厚生労働省の「衛生行政報告例」によると、豆腐製造業の営業施設数は1960年のピーク時には5万施設以上あったが、2020年には5319施設まで減少。それ以降も毎年300施設以上が減り続け、最新の2023年には4272施設にまで落ち込んでいる。

小さな資本で事業を始めることができ日銭を稼げる豆腐店は、戦後に広がった。地域には複数の豆腐店があり、日持ちしない豆腐は近所で買うのが当たり前だった。製造技術が向上し賞味期限が長くなると、豆腐を遠くまで運べるようになった。スーパーのチェーン展開が進むとメーカー間で価格競争が激化した。

豆腐を作るスタッフ
写真提供=平川さん
豆腐を作るスタッフ

スーパーとのいびつな関係

こうした状況に、忖度する豆腐店も少なくなかった。スーパーに値下げを要求されずとも、取引を切られることを恐れ、自ら値下げに踏み切る。値上げ交渉などもってのほかだった。

大豆や電気代の価格など生産コストが上がっても、豆腐店には価格決定権などない。薄利多売で生き残ることができない中小の豆腐店は、廃業するしかなかった。

入社して間もないころの出来事を平川さんは、今でも覚えている。

あるスーパーの担当者から「棚卸しを手伝ってほしい」と呼び出された。夕方スーパーへ行くと、大手メーカーの営業担当者と町の豆腐店、同じく特売品として売りに出されることの多い牛乳や卵のメーカーが集められていた。豆腐の棚だけではなく、すべての商品の棚卸しを行う作業は、翌朝まで続いた。

店舗の清掃活動にも駆り出された。

「あの豆腐屋は来てないから、うちに商品入れなくていいな」

小声で交わされるスーパーのバイヤーの言葉に、いびつな力関係を感じた。

「このままでは終わらない……」。平川さんは、静かに前を向いた。

入社して2カ月ほど経ったある日、会社を存続させるために、数百万円の融資の保証人になった。

「大口取引先のスーパーが倒産して創業以来のドン底から、ちょうど這いあがろうとしているタイミングでした。このまま会社を潰すのか不渡りを出すのか、サインするのかと言われたら……サインするしかないですよね。もう後戻りはできないと覚悟を決めました」