「雑な扱い」で船員の月給分が飛ぶ

当初、三つの変化について、さほど深く考えていたわけではなかった。だが、それは、藤本が苦労して現場に浸透させた、鯨肉の品質向上に不可欠な取り組みだったのである。

「山川さんが乗った2007年、2008年は、解剖デッキはまだブナ材だったはずです。でも、いまはポリエステル材に変えました。ブナ材だと肉に木くずも付着するし、血や脂が染み込んで衛生的な環境とはいえなかったので」

藤本は衛生面のリスクを具体的な数字を並べて解説する。

「もしも肉に大腸菌が付着したとしたら刺身として提供できなくなってしまいます。加熱用の肉になると20%か30%値段を下げざるをえない。製品にできるのはクジラの体重の50%前後。平均するとニタリクジラなら一頭からだいたい7トンの食肉が生産できます。仮に1キロ1000円としたら単純計算で一頭700万円。その肉が菌におかされたとしたら……」

700万円の肉が2割から3割引きとなると、140万円から210万円の損失となる。一頭だけならまだしも、汚染が数頭、数十頭に広がってしまったら。

「従業員何人分の月給に相当するのか……。いい加減な処理をしていると損失ばかりが増えてしまう」

藤本が淡々と並べる数字は、具体的に想像できる金額なだけにリアルだった。

「清潔な環境」に聞く耳を持たれなかった

「もしこの船に乗らなかったとしても、食品の道には進んでいたと思います」

確かにメガネをかけた色白の藤本は、クジラを追う船乗りというよりも、白衣をまとい食品開発にたずさわる姿が似合いそうなたたずまいである。

大阪市の実家の近所には魚市場がある。新鮮な魚介類が身近だったせいか、幼い頃から海と食品が好きだった。下関の水産大学校で食品加工を学んだ藤本が、日新丸で鯨肉と向き合うようになったのは2009年のことである。

船尾に設置されたスリップウェーと呼ばれる傾斜から鯨を引き上げる日新丸(写真=Customs and Border Protection Service, Commonwealth of Australia/CC-BY-SA-3.0-AU/Wikimedia Commons

乗船直後から藤本が取り組んだ衛生面の改善は、製造部員たちの意識改革でもあった。

彼は往事を思い返したのか、「相当苦労しました」と苦笑した。

「清潔な環境を保とう」といくら繰り返しても誰も聞く耳を持たない。

たとえば「一頭目の解剖が終わったら水を流してください」と伝えても誰も動こうとしない。総スカンを食らった。

製造部員には水産高校を卒業してからずっと働く叩き上げや、ほかの漁船で揉まれたベテランが多い。そこに責任者として日新丸に乗り込んだ大卒の若手社員が、改革策を打ち出したのだ。

船員たちが抵抗を覚えるのは想像に難くない。長年続けた自分たちのやり方を、大卒の新人が否定したと受け取ったベテランもいただろう。あるいは余計な雑役が増えたと面倒くさがる船員もいたに違いない。