ぜいたくすることしか楽しみがない
そんな大奥は、よく知られているように、奢侈であることがたびたび問題になった。3代将軍家光が鷹司信房の娘を京都から迎えて以来、歴代将軍の御台所は基本的に、天皇家や皇族、公家の娘だった。その御台所が京都から上層の奥女中を連れてきたから、大奥の習慣や雰囲気は自然と京都風になった。それが奢侈にもつながり、江戸初期からたびたび倹約するように言い渡されながら、実現しなかった。
奢侈が改まらなかったのは、大奥での生活に、ぜいたくするくらいしか楽しみがなかったから、ともいえる。
奥女中が奉公に上がるときに差し出す誓紙には、「生涯相勤め申すべく候こと」と記され、いったん奉公すると、手紙を出せる範囲さえ親族に限定された。
中級以下の女中たちは、途中で暇を申し受けることも不可能ではなかったが、上臈や御年寄、中年寄、御客会釈、御中臈らは、基本的に病気になっても暇をもらえなかった。このため、彼女たちからぜいたくを奪えなかったのだろう。
江戸城本丸御殿が5回も全焼した理由
前述したように、ただでさえ激しい勢力争いが日常の大奥である。ぜいたくまで奪って奥女中たちの不満を鬱積させるのは、得策ではない。なにしろ、そうした不満はとんだ災害も引き起こしていた可能性があるのである。
江戸城本丸御殿は江戸時代をとおして5回、全焼している。この回数はほかの城と比較したときに、異常なまでに多い。ほかに西の丸御殿、二の丸御殿も4~5回ずつ全焼している。
その一例だが、文久3年(1863)に本丸御殿と二の丸御殿が全焼したときは、大奥御客御供溜から出火している。また、慶応3年(1867)に再建されたばかりの二の丸御殿が焼失したときも、大奥の長局の辺りで出火している。むろん、昔から放火が疑われている。
確認のしようはないが、狭い空間に閉じこめられた奥女中たちの鬱積した不満が、放火につながった可能性は否定しきれない。