100%確実だと言いきれることはこの世にはないが…

たしかに、人類はかつて、いまでは真実として認められている意見を迫害したかもしれない。しかし、その歴史を反省するあまり、現代の人々(あるいは将来の人々)にとって明らかに危険な思想を野放しにしては本末転倒だ。

同じ過ちを繰り返さないことが大切なのは認めよう。しかし政府と国民は、権力を行使すべき分野でも過ちを犯してきた。不当な課税や不当な戦争が何度もあったのは事実だが、だからといって、税金を課すのをやめるべきだとか、どんな挑発を受けても戦争をすべきではないという話にはならないはずだ。国民と政府は、いまこの瞬間、自分にできる最も正しいことをしなければならないのだ。

100パーセント確実だと言いきれることはこの世にはない。だが、人間が生活していくうえで「この程度の確実性があればじゅうぶん」と言える基準は存在する。私たちは、自分の意見が行動の指針として正しいかどうかを考えることができる。いや、考えなければならない。

悪意のある人々が、間違いだと思える思想、有害だと思える思想を広め、社会を堕落させるのを防ごうとするとき、私たちはその「基準」を満たしている。

「反対する自由」を認めなければならない

このような反論に対し、私はこう答えたい。その考え方が「基準」というものを満たすことはありえない、と。

ある意見を「正しい」と言うとき、その理由はふたつ考えられる。ひとつは、その意見が一度たりとも論破されていない場合。もうひとつは、論破の機会をなくすために、その意見が正しいことが「前提」になっている場合だ、このふたつには、きわめて大きな違いがある。

自分たちの意見が行動の指針として正しいかどうかを判断するには、考え方の異なる人たちの「反対する自由」を認めなければならない。反対意見が出てこない状況では、自分の意見が正しいと思っていても、合理的な確信はぜったいに得られないからだ。

歴史を振り返ってみよう。人類はこれまで、どんな意見をもってきただろうか。また人類はいま、どんな生活を送っているだろうか。危険すぎる思想が主流になったことはないし、いまの人々の生活が堕落しているようには見えないはずだ。

だがそれは、人間がすぐれた知性を備えているからではない。というのも、むずかしい問題が生じたとき、それについて判断を下す能力をもつ人は、せいぜい100人に1人しかいないからだ。そして、その1人も「ほかの99人と比べれば能力がある」程度のものでしかない。