教師たちは「予定調和的な展開」に悩んでいる
広島大学の教育ヴィジョン研究センター(以下、EVRI)では、報告書において、高校現場での同性婚の取り扱いについて調査した結果をまとめています(『社会科教師の論争問題学習に対するスタンス調査研究/EVRI研究プロジェクト叢書』第6号、2022年)。
高校教師は「現代社会」または「公共」で現代のセンシティブな問題の取り扱いについては避ける傾向にあると言いますが、その中で同性婚は比較的に回避されず取り扱われる傾向にあるようです。
それは、同性婚自体が高校生にとっても、そして最近では世間においても、あまりセンシティブな論争問題になりえていないからのようです。
先ほども触れましたが、若年層を中心に多くの人が同性カップルの法律婚を認めるべきであると考えているという調査結果も各方面から出ています。
しかしだからこそ、同性婚を取り扱う授業が予定調和的な展開になりがちなことに悩む教師も少なくないようです。
結婚が認められないことで同性カップルがどんなことに困っているのかの実態について調べ(場合によっては当事者に共感的に理解させ)たのちに、国や司法に状況改善を呼びかけていく、というパターンに陥りがち……。
制度批判の視座を生徒たちに保障できているかもしれませんが、議論することを大切にする公共で取り上げるアプローチとしては、もうちょっと工夫が欲しいことです。
結婚という「制度」の存在まで問いかける実践も
実はこの点については、私もこの記事を書くにあたって、大変に悩んだところです。
EVRIの報告書には結婚を国が制度として強制すること自体の是非を問いかけることで、同性婚をめぐる議論が「結婚」という制度を当然として議論していることに疑問を投げかけるという、リバタリアン(自由至上主義)の見解を取り上げて「悪魔の代弁者」を演じる教師が紹介されています。
これも大変にラディカルで面白い試みだなと感じましたが(もしかしたら、こちらの方がより「制度/政策批判学習」の理念に対応しているかもしれませんね)、本記事では、まず政府が民法で結婚を制度として国が保障してきたことの意味(重要性)に注目することに重きを置きました。
あくまで結婚は大切な制度であって、そこから同性カップルが排除されて良いのかな、と読者に問いかけた上で、どうやれば皆が納得する形で同性婚もしくはその代替となる制度が社会で実現していくのか、手順(司法主導か、それとも議会主導か)について考察していけるように論を展開しました。
司法判断(最高裁判決)まで待とうとしている政府の姿勢を問い直す形にしたわけです。
こうした今回の私の判断が正しいのかどうか、それは読者に判断してもらいたいところです。ただ一つ言えることは、同性婚の取り扱い方には、複数の選択肢があるということです。