高校の必須科目になった「公共」で、高校生はどんなことを学んでいるのか。東京学芸大学の渡部竜也准教授は「小中学校の社会科では、『政府は決して間違っていない』という姿勢で授業が行われている。しかし、『公共』という新科目が設けられたことで、学校教育で現在の制度課題や制度のあるべき姿についての議論が一部では始まっている」という――。

※本稿は、渡部竜也『大学の先生と学ぶ はじめての公共』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

霞が関(東京都千代田区)の旧文部科学省庁舎
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高校生たちが語り合い、“民主主義の要”を学ぶ

2022年4月から登場した新科目が「公共」という名称になったことは、大変に注目すべきでしょう。

これまで「公共」という概念が学校教育で重視されることはほとんどなく、今回、公民科において唐突にこの言葉が出てきたような印象もありますから、学校現場には戸惑いもあるかもしれません。

学習指導要領を読む限り、この「公共」とは、「公共的な空間」、つまり「社会の諸問題・諸課題について市民が対等な関係で語り合う空間」のことを意味しているようです。

ドイツの哲学者、ユルゲン・ハーバーマスのいう「公共圏」を学校現場向けにわかりやすく表現したものであると言えるでしょう。

そしてここに、話し合いを通して賛同者を増やすという面倒なプロセスこそ民主主義の要であることをしっかりと意識づけしていこうとする文部科学省の本気度を見ることができます。

これには、これまでの学校教育が、進路決定、学力の形成と評価、政治思想の形成、その他何事についても個人単位でなされるべきであるとしてきたこと。

そして「急速かつ激しい変化が進行する社会を一人一人が主体的・創造的に生き抜いていく」という個人主義を当然としていたことが背景にあります。

「一個人」では社会を変えられない

これでは、人間的成長、問題解決、政治参加は常に個人単位となってしまいます。

周りの人々(特に教室の同級生たち)の存在は、同志ではなく、競争相手か、利益を妨害する敵か、そうでなければたまたまそこにいるだけの一時的にやり過ごす存在になってきたのではないでしょうか。

民主主義体制下においては、一個人の思いだけでは政治や社会は変えられない、一個人の思いを投票にぶつけるだけで政治や社会は変えられないという、とても当たり前のことを日本国民は体験的にも理解する必要があります。

民主主義は「公共的な空間」に人々が参加することで本領が発揮できる政治体制なのであり、それは学校教育で教えていかないと、なかなか実感のできないことだと思います。

ただこうした新科目「公共」については、個人より全体=周囲を重視する「場の空気を読む子」を育てることにつながるのではないか、また、模擬裁判や模擬投票などが強調され、活動ばかりで中身がない科目になってしまうのではないかという危惧の声があると聞きます。

学習指導要領において話し合いは強調されているけれども、「批判」という言葉は登場せず、結局は政府の政策や制度への順応を第一にしているのではないかという主張も目にしました。

これらについては、確かに警戒しなければならない問題だと思います。