転移性の骨がんであることを告知されるが、冷静に受けとめた

実子・芳武さんは、嘉子さんに、がんであることを知らせました。

「母とは、以前から話をしていて、万が一のときも病名は隠さずに伝えてほしいと言われていました。母は私が病名を告げると冷静に受け止め、治療を受けました」

嘉子さんはがんを知らされたときの想いも日記に綴っています。

「私のママ(ノブ)も、ママのママも脳溢血で亡くなった。私も高血圧だから、死ぬのは脳溢血だと信じていた。自分は恐ろしいがんとは無縁だと信じていた。それがはずれた失望から、おかしく、口惜しい。それにしても、おかしかった。自分の独りよがりがこっけいだった。がんを宣告されたときは、全くヘェーという思いだった」

同時期、夫の乾太郎さんも闘病していました。

夫も闘病、三淵家の子どもたちは入院した嘉子をどう支えたか

乾太郎さんの三女・麻都さんは、嘉子さんの身のまわりの世話もかいがいしく焼きますが、そんな麻都さんに嘉子さんはずいぶん甘えたようです。

佐賀千惠美『三淵嘉子の生涯』(内外出版社)

自分ががんとわかっても「このままでは死ねない。一日でも長く生きたい」と、食欲が落ちているのにあれこれ食べられそうなものを考えて、麻都さんに「この次、持ってきてね」とリクエストする嘉子さん。

しかし、いざ麻都さんがそれを持って行っても、希望どおりでないと文句を言うのです。

ラーメンを作ってあげれば「病人に食べさせるのになによ、これじゃあ“素ラーメン”じゃないの」と、具がのっていないことに文句をつけるくらいは序の口。

御膳そばが食べたいというのでわざわざ麻布十番まで行って買ってきたというのに、嘉子さんはそばをひとめ見るなり『ああ、これはニセモノのほう。あそこの路地を入って行った奥のほうに、本物の店があるのに』と情けなさそうにため息をついたり……。

気を許した家族の前では我が強い嘉子さんの性格は、最後まで変わりませんでした。

それでも4月ごろになり、ほとんど何も食べられなくなってしまった嘉子さんを見て、麻都さんは思うのです。

「どんな憎まれ口をたたこうと、文句を言おうと、少しでも食べてくれたときのことが、ずいぶん懐かしく思った。母(嘉子)から見れば、私はできの悪い娘で、心配ばかりかけた親不孝だったけれど、最後にあれだけ好き勝手を言い、甘えてくれたことで、私は満足している」(『追想のひと三淵嘉子』)

嘉子さんは、本当に人に恵まれた良い人生を過ごしました。

後編に続く

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