一条天皇を動かしたふたつの要素

その後、一条天皇は藤原道長(柄本佑)に、「左大臣、御嶽詣でのご利益はあったのか?」と尋ねた。御嶽詣でとは、道長が長女の彰子の懐妊を願って、危険を冒してまで金峯山に参詣したことを指している。道長が「まだわかりません」と答えると、一条は「今宵、藤壺(註・彰子の後宮)に参る。その旨伝えよ」と告げた。

つまり、一条天皇は道長の必死の御嶽詣でと彰子の告白を受けて、彰子と夜の営みをする決意をし、その予定を告げた。これはそういうシーンだった。寛弘4年(1007)も暮れに近づいている時期のことである。

こうして彰子は、史実として年内に懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、ついに道長の念願だった皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産する。

寵愛した亡き皇后定子(高畑充希)への思いを断ち切れず、また、入内した当時、数え12歳にすぎなかった彰子を、なかなか妻として受け入れられなかった一条天皇の変化。それを促したのは、史実においても「光る君へ」で描かれたのと同様、道長の御嶽詣でによるプレッシャーと、彰子の精神的な成長だったと考えられる。そして彰子の成長には、紫式部による貢献が無視できない。

「私、漢文を学びたい」

彰子が入内したのは長保元年(999)で、年齢はわずかに数え12歳だった。そのころは定子が健在で、そもそも彼女は、道長の長兄である道隆の政略として入内したのだが、一条天皇とは、この時代には異例の「純愛」関係にあった。しかも、彰子が女御になったまさにその日、一条の第一皇子、敦康親王を出産しており、幼い彰子が一条から顧みられる余地など、まったくなかった。

それから8年間、彰子は一度も懐妊することなく、存在感が薄いままだった。「光る君へ」では、そんな彼女が「うつけ」と呼ばれているという描写があったが、外れていないと思う。しかし、最高権力者の道長が大がかりな御嶽詣でを挙行してまで、彰子の懐妊を祈願しているとなれば、一条も彰子を放っておくことはできなくなったに違いない。

加えて20歳になった彰子に、一条天皇への思いが芽生えていたことも推察される。

そのころ、紫式部は彰子を相手に漢文の講義をはじめている。『紫式部日記』によれば、だれかに要請されたからではなく、彰子が漢文のことを知りたそうにしていたからだという。その時期は、懐妊中の寛弘5年(1008)の夏ごろからだと考えられているが、その前年だとする見方もある。

彰子が漢文を学びたいと思うきっかけと思われる文言が、『紫式部日記』のなかにある。一条天皇が『源氏物語』を女房に読ませ、それを聞いて一条が「この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし(この人、つまり紫式部は日本書紀を読んでいるに違いない。非常に才能があるはずだ)」と述べた、というくだりである。