江戸幕府のスタンダードとなる城をつくった
豊臣滅亡後、伊賀上野城と津城の工事はストップした。元和元年(1615)に将軍徳川秀忠の名をもって一国一城令と武家諸法度が出されたからであった。主に西国大名に対し、居城一つを除いて領内の城や砦を全て破却させ、新規の築城は認めないことにしたのである。大名の防衛力を大幅に削ぐのが目的だった。武装解除に等しい措置といえた。
高虎も命に従い、伊賀上野城と津城の修築を中止した。伊賀上野城の本丸が全て石垣で囲われず、土塁のままなのは、そのためだという説もある。
大坂の役後も、高虎の家康への傾倒ぶりは変わることはなかった。家康は臨終の床で高虎に「もう会えなくなるな」と寂しそうにいった。
高虎は「あの世でお目にかかれます」と答えたが、家康は「おまえとは宗派が違うので無理だ」と返した。すると高虎は、その座にいた天海僧正を導師として即座に家康が帰依していた天台宗に改宗したといわれる。
何の躊躇もせず、先祖代々の宗派を捨て去るのは、なかなかできることではない。いかに家康に尊崇していたかがわかる。高虎はその後、十数年を生き、将軍秀忠、そして家光にも信頼され、幕府のご意見番的な立場になった。家康の霊廟である日光東照宮の縄張りをになったのも高虎であった。
豊臣の大坂城を埋めて、新たに徳川の大坂城を築城したが、その縄張りを担当したのも高虎だ。さらに大坂城の石垣、二条城や淀城、上野寛永寺の縄張りや造立・増築に関わるなど、最晩年まで築城に関わり続けた。そして、寛永7年(1630)に75歳で没したのである。
藤堂高虎は、さまざまな工夫を凝らした鉄壁の城を生み出したが、自身が天下人徳川家康と結びついたことで、高虎式の城は江戸幕府のスタンダードとなり、諸大名に模倣され、江戸時代の主流となったのである。