長い時間をかけて言語的な実践を行っていく

【水林】即効薬はありません。途方もなく長い時間をかけて日常的に言語的な実践を行っていくことによってしか、社会が本質的に変わることはないでしょう。しかもこれは、非常に難しいことでもあります。

大学の教師だったころ、ぼくより若い同僚がぼくのことを「水林先生」と呼ぶので、「先生はやめて、お互い~さんでいきましょう」と提案したことがあります。少なくともぼくの周囲では、上下・強弱関係を反映した言葉遣いは極力やめるようにしていたわけですが、ゼミ生を性別によって「○○さん」「○○君」と呼び分けることは、ぼく自身、なかなかやめることができませんでした。自然に身についてしまった言語的な習慣を改めるのは、とても難しいことなのです。

より本質的なことを言えば、教育を通して「社会は何のためにあるのか」をしっかりと定着させていくことが大切だと思います。

社会契約論』(岩波文庫)を書いたルソーは、自由な自然人たちが対等な資格で生きている、社会・国家に先行する世界を「自然状態」と呼びました。いかなる社会も存在せず、したがっていかなる社会的地位や資格も存在しない、自然のままの世界です。社会関係をいっさい知らない平等な自然人たちは自由に振る舞うことができます。しかし、一人の自然人の自由は別の自然人の自由と衝突せざるを得ないため、自然状態は必然的に戦争状態に移行することになりますから、生き方を変えない限り、やがて人類は滅亡してしまう。ルソーはそう言うのです。そこから、「社会契約」の必然性が導き出されます。

目的地はまだまだ遥か彼方

【水林】自然人は社会契約によって自然状態を抜け出し、各人の自然的自由をより高次な市民的自由として確保する。これがルソーの考えるところですし、1789年の人権宣言の核心にある思想です。

つまり「社会」とは元からその辺にころがっているものではなく、自然人たちが「自然的」であり、「神聖」であり、「譲渡不可能」であり、「時効にかかることのない」諸権利(自然的諸権利)を擁護するために、ただそれだけのために「社会契約」を媒介にして、みずから製作したものなのです。ここで「」に入れた表現は全部1789年のフランス人権宣言からの引用です。それでは自然権=自然的諸権利とは何かと言えば、それこそが、われわれ自身にも言葉としては馴染みのある「基本的人権」なのです。つまり社会とは、基本的人権を守るために、ただそのためだけに「自然的諸権利」の主体者自身たちによって製作された、そういう思想です。

これが「近代的」であることの核心です。「分限」にとらわれ、「わきまえる」ことを意識して生活しているわれわれの現在地から見ると、目的地はまだまだ遙か彼方という感じですね。わたしたちは、『第三身分とは何か』のアベ・シエイエスが「第三身分とは何か」と問い、これに「すべてである」という解答を与え、「分限」の思想をこっぱみじんに破壊することによって「近代」が始まったということを噛みしめる必要があります。要するに、日本は依然としてまったく「近代的」ではないのです。