「握った手の数、訪ねた家の数しか票は出ない」
私がその意を問うと、「地元の有権者は、石破茂は知らなくても親父さんのことは知っている。あの石破二朗の倅ならば、そんなに変なやつじゃないだろうという安心感もある。まっさらの候補だと、その安心感を得るまでに、俺の計算でだいたい1億8000万円ぐらいはかかる。お前はそれが要らないから、出られるんだ」と言われました。そして続けて、「そう言われて悔しかったら、今すぐ鳥取に帰って、毎日毎日、くまなく挨拶回りをしろ」と言いました。
あとから聞いたところによると、羽田孜先生も小沢一郎先生も、いわゆる二世、三世の候補者には、同じことを仰っていたそうです。「握った手の数、歩いた家の数しか票は出ない。余計なことは考えずにともかく歩け」ということでした。
鳥取県庁で記者会見した後、すぐに鳥取県の中でもいちばん岡山県境に近い集落に行き、一軒ずつ回りました。次の日にならないと、私が衆院に出るという記事にも接することがないわけで、「あなた誰?」という中で、初めて挨拶回りをしました。
5万4000軒を訪ね歩いて得た票数
地域の支援者の方々と一緒に今日は200軒、次の日は300軒とひたすら選挙区を回りました。86年の選挙までに5万4000軒歩いて、獲得したのは5万6534票でしたから、まさに角栄先生の言葉通りの結果になりました。この「常に有権者に接し、国民の声を直接吸い上げることが政治の原点だ」という教えがなければ、私は絶対に国会議員になれていなかったでしょう。
その後、選挙区での日々を送る中、角栄先生にお会いするチャンスもありませんでした。
元気な角栄先生に最後にお会いしたのは、85年2月、確か倒れられる2週間前くらいのことでした。
朝、目白に呼ばれて伺うと、いつもであればお客さんが引きも切らずで待合室が満員だったのに、その日は閑散としていました。竹下先生の派中派である「創政会」結成が表面化した後のタイミングでした。あれだけ賑わっていた目白のこの寂寞とした雰囲気は何だろう。権力の遷移というものの凄まじさを体感したように思いました。
待たされることもなくいつもの応接室に行くと、角栄先生は朝だというのにオールドパーを飲んでおられました。いつもの先生とは全然違う感じで、話が弾むということもなく、一抹の不安を感じながら、私は目白を後にしました。