権力闘争という政治の世界の厳しさ

角栄先生と竹下先生の間に微妙な距離を感じることは、他にもありました。

竹下先生のご尊父、島根県議をされていた勇造先生が84年3月に亡くなり、その葬儀が島根県掛合町で執り行われました。その時はたしか東亜国内航空が臨時便を飛ばし、角栄先生以下、田中軍団のほとんどがそれに乗って島根入りし、葬儀に参列しました。私は事務局員としてチケットを渡したり、席の手配をしたりしていました。

葬儀はものすごく短いものでした。長々と弔辞を読むということもなく、住職の読経の後、竹下先生のお礼の挨拶で終わりました。その後、近くの大きな蕎麦屋でおときがあり、皆でお昼を食べたのですが、角栄先生が妙に上機嫌だったのを覚えています。

「竹下はえらい奴だ。長々とした葬儀をせずにすぐに終わった」と、2回繰り返されました。その誉め言葉を真に受けていいのかどうか。当時の私には及びもつきませんでしたが、すでに水面下では、田中派から竹下派への世代交代の暗闘が行われていたのかもしれない、と思うと、権力闘争という政治の世界の厳しさを思い知らされる感がしました。

竹下登 内閣総理大臣(第74代)
竹下登 内閣総理大臣(第74代)(写真=内閣官房内閣広報室/CC BY 4.0/Wikimedia Commons

「田中もいつまでも力があるわけではない」

こうして無事に結婚した後も、木曜クラブ事務局での仕事が続きました。衆院の鳥取全県区はまだ私が出られる状況ではなかったのですが、84年春になって状況が一変します。

前年のロッキード選挙において、鳥取全県区で当選を果たした島田安夫さんが、4月11日に死去されました。鳥取県議4期、県会議長まで務められ国政に転向、1回当選してその後3回落選して、奇跡のカムバックをロッキード選挙で果たしたのですが、一回も登院することなく亡くなられました。肺がんでした。所属は中曽根派でしたが、この方もまた隠れ田中派と言われていました。

それで角栄先生から目白に呼び出しがかかりました。

「お前な、島田が死んだな」と言われて、

「はあ」と返すと、

「石破な、お前の選挙区にはすでに田中派(平林鴻三氏)がいるから、そこからは出られない。お前がどうしても俺と一緒にやりたいって言うんだったら、今回は見送れ。だがな、国会議員になれるチャンスってのは、10年に1回あるかないかだ。その機を失うと、一生国会議員になれないかもしれんぞ。島田は中曽根派だが渡辺(美智雄)系だ。お前がもし渡辺のところに行っていい、ということなら俺が渡辺に話をしてやる」

その時、角栄先生がこう付け加えられました。

「田中もいつまでも力があるわけではない。派閥も永遠ではない」