15歳で単身東京へ

1972年、私は慶應義塾高校に進学します。

実は、父としては、自分が卒業した鳥取一中(今の鳥取西高)に進ませ、東大に入れて役人にしたかったらしいです。ただ、母親はそれに賛成ではなかった。そうでなくても秀才とは言えない息子は、鳥取西高はなんとか受かるかもしれないが、東大に行けと無理やり勉強させるのがいいのかどうか、と思ったようです。

政治家の子どもというのは、言うことを聞くいい子になるか、ぐれるかどっちかだというのが相場のようですが、この子はあまり強制するとぐれるかもしれないと。もう一つ、知事の息子が県立高に行くのはあまりよくない、という思いが母にはあったらしい。彼女自身が知事の娘として県立高に行き、教師からも友人からも特別視され、嫌な思いをしたんだそうです。だから、自分の子には同じ目には遭わせたくないと思ったのでしょう。

私も当時田舎の中学生ですから、灘だの麻布だのはよくわからない。過去問集を見ると難しそうだし、そういうところに行こうとは全く思わなかった。東京教育大(現・筑波大)附属駒場高校とか学芸大附属みたいなところを受けようかなと思ったら、当時は親が首都圏にいないと受けさせてもらえなかった。それで結局消去法で慶應くらいしか残らなかったんです。父はすごくがっかりしたようですが、まあ母の意見が通って15歳で東京に一人で出てくることになりました。

そこから一応一人暮らしが始まるわけですが、上の姉が近くに住んでいたので、その近くにアパートを借りてね。食事その他は上の姉が面倒を見てくれました。

夜行列車「出雲」の中で鳥取を感じた

東京に出てきてみて、カルチャーショックが凄かったですね。慶應をやめて鳥取西高校を受け直そうと何度思ったことか。いじめはなかったですが、みんなよく勉強ができるし、格好いいしね。

石破茂『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)

そうやって落ち込んだ時は、必ず帰りに東京駅に寄って、夜行列車が出るホームに行きました。東京駅から山陰方面に行く夜行特急「出雲」というのがあって、乗るのは東京の人が半分くらい、島根の人が4分の1くらい、そして鳥取の人が4分の1くらいいるんです。だからそこに行くと鳥取の人の訛や会話を聞くことができる。

まさに石川啄木の歌の通りでした。「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」ですね。このまま夜行列車に乗って帰ったらどんなにいいか、とも思いながら、何とか我慢して東京の家に帰りました。ただ、1年の夏休みの頃には東京生活にもすっかり慣れ、そんな気は全く薄れていました。やはりまだ15〜16歳ですから、同化するのも早かったんでしょうね。母親が東京の人だったんで、それほど違和感もなく溶け込んだ気がします。もちろん選挙区に帰れば、今でも鳥取の言葉をしゃべりますよ。ネイティブですからね。

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