「自己実現」という夢が若者を長時間労働にのめり込ませた

また90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア教育は取り入れられ始めていた。労働市場が崩れ始めた90年代後半から、「夢」を追いかけろと煽るメディアが氾濫するようになる。

すると、労働者の実存は、労働によって埋め合わされるようになってしまった。これ以前だと、学歴のない人々が本を読んだりカルチャーセンターに通ったりして「教養」を高めることで自分の階級を上げようとする動きもあった。だが、新自由主義改革のもとではじまった教育で、私たちは教養ではなく「労働」によって、その自己実現を図るべきだという思想を与えられるようになってしまった。

時代は長時間労働。彼らは「余暇を楽しむために仕事をする働き方ができていない」状況にあった。しかしそれでも、「自己実現」という夢が、若者を長時間労働にのめり込ませてしまっていた。そんな状態で人々が読書する時間は、確実に減っていた。

「ノイズのない情報」を与えてくれるインターネット

『読書世論調査』(毎日新聞社)の調査によれば、2000年代を通して増減を繰り返していたが、2009年(平成21年)にはすべての年代で前年よりも読書時間が減少した。では00年代に何が起きていたのか。――そこにあったのは、「情報」の台頭だった。00年代、IT革命と呼ばれる、情報化にともなう経済と金融の自由化が急速に進んだ。

読書はできなくても、インターネットの情報を摂取することはできる、という人は多いだろう。仮にこの対比を、〈読書的人文知〉と〈インターネット的情報〉と呼ぶならば、そのふたつを隔てるものは何だろう?

〈インターネット的情報〉は「自己や社会の複雑さに目を向けることのない」ところが安直であると社会学者の伊藤昌亮は指摘する。逆に言えば〈読書的人文知〉には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性や文脈性を重んじようとする知的な誠実さが存在している。

従来の人文知や教養の本と比較して、インターネットは、ノイズのない情報を私たちに与えてくれる。求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことができる。それが〈インターネット的情報〉なのである。

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「情報」と「読書」の最も大きな差異は、知識のノイズ性である。つまり読書して得る知識にはノイズ――偶然性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった展開や知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。