「日本版CIA」が誕生していたかもしれない
戦後の日本で最初に政府直属の情報“部門”が作られたのは、1952(昭和27)年のこと。
第3次吉田茂内閣で発足した「総理大臣官房調査室」だ。しかし、それを発展して内閣官房直属に独立した情報機関を作ろうとした人物がいた。緒方竹虎・自由党総裁である。
緒方はもともと朝日新聞の幹部記者で、戦前に主筆を長く務めたが、退職後、大戦中に国務大臣兼情報局総裁に就任。終戦後は公職追放を経て政治家になり、吉田茂政権で内閣官房長官、副総理を歴任した。
緒方は官房調査室設立にも関わっていたが、吉田政権で要職を得たことで、日本版CIA設立構想をいっきに進めようとしたが、国民世論の反発が大きく、頓挫する。緒方は吉田退陣後の自由党総裁になり、保守合同後に総理就任の予定だったが、直前に病死した。もしも緒方が政権に就いていたら、日本版CIAが誕生していた可能性もある。
世論は政府が「裏の組織」を作ることに大反発
いずれにせよ緒方が生前に進めようとしていた日本版CIA構想が実現しなかったのは、国会(野党)とメディア、つまり世論の大きな反発があったからである。当時はまだ戦前・戦中の記憶が新しく、政府内に強力な「裏の組織」を作ることに反対論が大きかったのだ。また、旧内務官僚中心の構想には、外務省の反発もあった。
その後、1957(昭和32)年に岸信介政権が「内閣調査室」を設立するが、規模はきわめて小さいものに留まり、独立した情報機関と呼べるものではなかった。冷戦時代、左翼系野党やメディアの力は強く、情報機関設立の機運は高まらなかった。
その代わりに日本では、防諜を担当する警察庁が情報部門を主導した。内閣調査室長は警察官僚ポストであり、同室の国際部門主幹も警察官僚が押さえた。防衛省(当時は防衛庁)の通信傍受機関である陸幕調査部別室(現在の情報本部)の電波部長も警察官僚が押さえた。警察庁では警備局から外事部門の要員を警備官や書記官として在外公館に派遣するとともに、日本赤軍などの国際テロリストを追う要員を、警備局調査官室から長期出張の形式で国外に派遣したりもした。