情報活動の重要性を認識していた2人の首相

他方、外務省と防衛庁(当時)は、人的インテリジェンス(ヒューミント)のような活動はほとんど行ってこなかった。また、日本政府の情報部門としては、法務府特別審査局(特審局)を改組した公安調査庁があり、旧軍の憲兵隊や特務機関のOB、あるいは内務省の特高警察のOBなども参加したが、日本政府内ではあくまで旧内務官僚主導の警察庁の権限が強く、公安庁は傍流扱いされた。

このように、戦後日本のインテリジェンスは警察主導で、あくまで防諜がメインだったが、冷戦が終盤に入ると、それまでの左翼陣営の力が国内でも弱まってきたこともあり、政府の情報機能の強化がときおり行われるようになった。なかでも大きな動きは、中曽根康弘政権の時だ。1986(昭和61)年、各省庁の情報部門の定例会である合同情報会議が作られた。内閣調査室も現在の内閣情報調査室に改編されている。

ただし、中曽根政権が終わると、情報機構改革の動きもほとんど止まる。次に動きがあったのは、その10年後の1996年から1998年の橋本龍太郎政権時で、内閣情報調査室に内閣情報集約センターが設置されたり、合同会議の上部機構として次官級の内閣情報会議の設置が決まったりと、情報活動の強化が図られた。これらはいずれも、中曽根首相と橋本首相が自ら、政府の情報活動の重要性を認識していたから実現したことだ。

安倍首相も対外情報機関の設立を目指した

その後、情報活動の強化に取り組んだのが、2006年に発足した第1次安倍晋三政権である。こうしてみると、日本政府の情報部門の改革は、まさに10年ごとに動くということが繰り返されてきたことがわかる。それは逆に言えば、たまたま情報を重視する政治家が首相ポストに就任し、改革を進めても、その後の10年は進まないということでもある。

第1次安倍政権では、官邸に情報機能強化検討会議やカウンターインテリジェンス推進会議が設置され、前者の中間報告では「対外情報機関の設立」が盛り込まれた。

安倍首相の辞任を受けて発足した福田康夫政権は情報機関設立路線を取り下げたが、それでも2008年に内調に内閣情報分析官を新設したり、カウンターインテリジェンス・センターを設置したりした。福田政権時にこの安倍路線を引き継いだのは、同政権の町村信孝官房長官である。町村氏も、情報の重要性を指摘してきた数少ない有力政治家だった。