私たちは老いてもなお、成長や発展を遂げられる

しかし、果たして本当にそうだろうか? 老年期の人生は私たちにとってオプションとして余った時間、文字どおり「余生」にすぎないのだろうか? そうした理由のせいで徹底的に目をそらしたくなる恐ろしい現実でしかないのだろうか?

ある日、詩人ロングフェローは熱心なファンからこう言われた。

「おおっ、久しぶりじゃないか! それにしても君は変わらないな。何か秘訣ひけつでもあるのかい?」

ロングフェローは庭にある大きな木を指して答えた。

「あの木を見てみろ! もはや老木だというのに、ああやって花を咲かせ実までつけているだろ。それができるのはあの木が毎日多少なりとも成長しているからさ。私だって同じだよ。年を取っても毎日成長しようと思って生きているんだ!」

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このように老人は決して「終わった存在」ではない。人は生きているかぎり、常に成長のための新たな課題を与えられているのだ。よって人は死ぬまで絶えず鍛えられ、再編成され矯正される。つまり私たちは老いてもなお、成長や発展を遂げられるのだ。人生の各段階が新たな変化の機会を提供してくれるからである。人格も同様だ。70、80、90歳を過ぎても変化し続けていく。その際、老いを捉える姿勢次第では、人生を「惨めで悔いばかり残るもの」ではなく「いつまでも希望と変化がある能動的なもの」にすることもできる。

70代後半~80代初めの男性たちが「若返った」

アメリカのハーバード大学心理学部教授エレン・ランガーは、1979年のある日、地元の新聞に70代後半から80代初めの男性たちを募集する広告を出した。心の時計を20年前に戻した場合、人の体にどのような変化があるかを調べるためだ。エレン・ランガー教授はある修道院を20年前の1959年と同じ環境にして、被験者に1週間、1959年当時に戻った気分で暮らしてもらった。被験者は『ベン・ハー』や『お熱いのがお好き』といった映画を鑑賞し、ラジオでナット・キング・コールの歌を聞き、当時の時事問題について討論した。その際、彼らは家族やヘルパーの介助なしに自分で食事のメニューを決め、調理や皿洗いなど身の回りのことを自分1人で行わなければならなかった。

すると1週間後、驚くことが起きた。被験者全員が実験前より若返ったのだ。視力や聴力、記憶力も向上し、知能が高まって歩く姿勢も良くなった。誰かの支えなしでは歩くのも難しかったある老人は、杖なしで背筋を伸ばして歩き始め、また別の老人は、フットボールの試合にまで参加できるようになった。