自分の感情を紐解く意志を奪っていく
「キモい」
何かに対してそう思ったとき、本来はなぜそう思うかが大切なのだ。気持ち悪いと思った理由、背景、それはもしかしたら他責的な思考で、自分の心に内在するトラウマ的な何かが原因かもしれない。
あまり良く思っていない感情にも多くの付随する感情があるはずだし、本来はこちらのほうが重要なのだ。それはあなたが世界をどう見ているかに繋がる貴重な情報なのだ。しかし、それだけでなんとなく済んでしまう「キモい」は、自分のその良くない感情を紐解く意志を奪っていく。
Books&Appsというサイトに寄稿した「Amazonで『鬼滅の刃』のコミックを買ってしまったのに、どうしても読み始める気になれない。」という記事がある。鬼滅の刃が爆発的な人気を博しているのに、なぜか自分は読み始める気になれない、という文章だ。
これは信じられないくらいの特大のバズを巻き起こした。本来の意味でのバズだったし、読んだ人の心をわしづかみにする意味でのバズ、両方のバズを起こした記事だった。
いまだに初めて会う人にはこの記事が好きだと言われることが多い。
この記事は自分の感情を丁寧に紐解くことで成り立っている。
自分の感情に無自覚な人が、人の心を震わせる文章を書けるのか
鬼滅の刃、こんなに流行っているのになぜ自分は読み始める気がしないんだろう。そこから自分の中の感情を丁寧に紐解いていくことが起点となっている。
これが「なんかしらんけど読み始める気にならんわ! ガハハハハハ」で終わってしまうと生まれてこなかった文章だ。「キモい」で終わらせることに慣れると、この紐解いていく作業ができなくなる。
「エモい」についても同様で、なんだか感動的な場面に接したときに使われることが多いが、本来はなぜここで自分の感情が動くのか、なぜ心の琴線に触れるのか、その感情のほうが重要なのだけど、あまりにその言葉が強い意味を持ち始めた「エモい」はそれを奪う可能性を含んでいる。
文章を書き、人の心を震わすことがバズだと述べた。これから文章で人の感情を揺さぶろうとする人間、それが自分の感情に無自覚だったとしたらどうだろうか。自分の感情に気づけない人がどうやって人の感情を震わせるというのか。
ここで大切なのは、別に「キモい」や「エモい」を使って書かれた文章がダメだとか、その言葉を使っている人は良くないと言っているわけではない。
ただ、自分の中で明確な線引きをして、こういう理由だから使わない、と決めることこそ自分の感情に向き合っていることになるのだ。思想はそれがいつしか言葉になり、行動になり、習慣になっていく。そう自覚していくことが大切なのだ。