※本稿は、pato『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。読みたくなる文章の書き方29の掟』(アスコム)の一部を編集したものです。
「キモい」「エモい」は文章で使わない
書けないという絶望を少しでも解消するために、自分の感情というものを思い返してみよう。それがなにかの糸口になることがある。なぜなら、文章によって表現しなくてはならない一番大切な情報は感情だからだ。それも書き手の感情だ。
なぜなら、それが唯一無二と言っていいほど独自性のある情報だからだ。それは読み手に提供される情報としては相当な独自性を持っているものなのだ。
「すごく好き」
「嫌い」
「嫌な感じがする」
「死ぬほど笑った」
「悲しい」
「苦しくなる」
文章に限らず、我々が誰かに伝える情報は、突き詰めていくと自分はどう感じるかに行き着く。どんな事象であっても、それを受けて自分がどう感じたか、我々はそれしか伝えていない。そのほかの部分はこれを効率よく伝えるための装飾に過ぎない。ある事象に対して著者はどう感じたか、突き詰めればそれだけしか伝えていないのだ。
そこで注意しなくてはならないのが、自分の感情を見過ごさないことである。
これに関して、僕はある決まりを自分に課し、それを守っている。僕は「キモい」「エモい」という2つの言葉を使わない。それをあえて使う意図がある場合を除いて文章でも日常生活でもほとんど使わない。この2つは断絶の言葉だからだ。
この「断絶の言葉」とは、そもそもそういう言葉はないし、あったとしても別の意味合いがあると思うけど、僕はそう定義して呼んでいる。
他にもいくつかあるけれども、「キモい」「エモい」この2つの言葉は断絶の度合いが傑出している。だから使わない。
2つの言葉が持つ「手軽さ」と「あやうさ」
では、この言葉たちはなにを断絶しているのだろうか。
これらは形容詞であるので「美味しい」「エロい」「痛い」といった言葉と同じなわけで、それらの形容詞を使って文章や言葉を構成していくことは当たり前だ。けれども、「キモい」「エモい」だけは使わない。
なぜなら、最近の文脈においては、この2つの言葉だけは「どうしてそうなのか」が語られることが少ないからだ。一般的に多くの場面で使われすぎてかなり強い力を持っており、それだけで済んでしまう手軽さと危うさがある。これはそういう使われ方をしている言葉だ。
とにかく「キモい」と言っておけば、いい感情を持っていないことが伝わるし、相手を拒絶できる。「エモい」と言っておけば、なんかいい風に感動しているんだなと伝わる。
むしろ、明確に何がどうでキモいだとか、何がどうでエモいのか説明しないことで曖昧に感情を伝える意図すら感じる。そんな言葉だ。
では、なぜこれを「断絶の言葉」と呼ぶのか。いったい何と断絶するのか。それは自分の感情だ。あまりにこれを使っていると自分の感情に気づけなくなってしまう。だから断絶と表現している。