プログラミングは学ばなくていい
文部科学省は20年から小学校、21年から中学校でプログラミングを必修化。プログラミング不要の時代が目前に迫っているときに、今さら始めたうえに、内容がひどい。最初に習うのは、「デジタルとは……、二進法とは……」。入り口でそんなことを教えるから子どもはプログラミングが嫌いになるのだ。
学習指導要領を決めたときには、まだ生成AIはなかったというかもしれない。しかし、学習指導要領は約10年に1回しか改訂がなく、その間にAIから生成AIが生まれ、数カ月単位で進化を遂げている。テクノロジーは加速度的に日々進化しているのに、そもそもカリキュラムを10年に1回しか見直さないのはナンセンスだ。
さらに言えば、学習指導要領自体が不要だ。弁護士や会計士、医師といったプロフェッショナルに就くには、必ず設問とそれに対する答えがある、国家資格に合格しなければならない。そういった世界で合格点を取るには、同じく質問があらかじめ用意され、解き方のルールや正解が決まっている暗記学習が効果的であり、学習指導要領で固められた学校教育にも意味があった。
しかし、時代は変化し、プロフェッショナルが稼げる時代は終わったのに、文科省は学習指導要領の名の下、今後、価値がなくなる人材を創ろうとする。
日本の教育は根本的に見直さなくてはいけない。具体的には「誰が」「いつ」「何を」という視点で設計し直すのだ。「誰が」は簡単だ。「先生」の語源とは、先に生まれた人ほど、たくさんの知識と経験を持ち、その知識を次の世代に教えるというものだが、先に生まれた人ほど、今では通用しない物事を身につけて教えたがる。それならばソクラテス先生こと生成AIに教えてもらったほうがいい。学校教育では正解を教えたがるが、ソクラテス先生は対話型。問題を発見したり、自分の頭で論理的に考え、質問したりするトレーニングにもなる。先生や親が介在してもいいが、正解を教えるティーチャーではなく、生成AIとの対話をサポートするファシリテーターに徹する。
「いつ」は、文科省に目をつけられる前の2歳頃からが理想的だ。ヤマハ4代目社長の川上源一は「リズム、メロディー、ハーモニーは2歳からやらないと本物にならない」といって日本全国に音楽教室をつくった。そこから世界コンクールで優勝するピアニストを多数輩出。世界で活躍するスポーツ選手も、幼少期から個別指導で英才教育を受けていたケースが目立つ。
「何を」は、実は何でもかまわない。本人が好きなことを学べばいいのだ。私の次男はゲームばかりして12歳頃から学校に行かなくなったが、独学でゲームを作るようになった。多くの人が社会人になる22歳のときには、業界歴10年のプログラマー。次男が開発に関わったゲーム開発プラットフォームは、今や業界でもっとも売れるゲーム作成エンジンになった、と言う人もいる。
芸術やスポーツだけでなく、ゲームやアニメなど、今日本が世界で誇れる分野の多くは文科省の埒外から育っている。たとえばプリツカー賞を受賞している建築家・安藤忠雄さんは、高卒で、若い頃はボクサーだったが、世界的な建築家になった。模造紙とクレヨンで大胆に描く像が希少価値を生む。構造設計などの細部は大学で建築学を学んだ人がやればいい、という発想だ。
学ぶものを学習指導要領で決めるのではなく、自分で見つけることが大切だ。周りはそれをファシリテートするだけでいい。そうやって育った人材が、生成AI時代をリードするのだ。