不利を有利にする見事な勝算

王翦は都咸陽東北の頻陽ひんよう県東郷で育ち、若いときから兵事が好きであった。配下六〇万の兵士からの信頼は厚かったと思う。楚軍が攻めてきても正面から向かわず、まず引いて防塁を固めて立てこもった。

鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)

秦軍にとって対楚戦の不利な点は、長距離の行軍による疲労である。兵士たちには休養を十分に与え、洗沐せんもく(身体を洗い、髪をあらうこと)までさせた。食糧も十分に与え、王翦は兵士と同じ飯を口にした。持て余した時間に投石で距離を競うことに興ずる余裕の様子を見せた。遊びであっても、いしゆみを引く筋力を鍛えるのに役立つ。

王翦は準備が万全と判断し、東に引いた楚軍を一気に追撃した。さきの李信軍とは異なり、六〇万の休養十分な大軍が団結して楚軍を攻めたことに勝算があったのであろう。こうして楚の将軍の項燕こうえんを殺し、楚都の寿春では楚王の負芻ふすうを捕虜とし、楚地は秦の支配下に入った。始皇二三(前二二四)年、秦王みずから楚の旧都の陳の地を訪れたと記録されている。王翦に任せた戦地への慰問であったのだろう。

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