総動員でなければダメだと念押し
前出の六〇万は概数ではあるが、この『算数書』のような王翦の計算結果の数値であり、畿内の兵士を総動員するのは大きな決断であったと思う。
設問の千人の六〇〇倍で、六〇万となる。六〇万は概数でも、内史(畿内)の県(三一県から四一県ほど)の下の郷からは、人口に応じた端数の数字を出さなければ負担の平等にはならない。一県に五郷(県城にある都郷と東西南北の郷)あるとすれば、四一県で二〇五郷。一郷につき千人なので、二〇万五千人となる設問の数値は、李信が提示した二〇万に相当する。王翦はその三倍の動員を要求したのであるから、文字通り総動員であった。
さきに秦王は王翦に、将軍の「計」を用いなかったために李信が秦軍を辱める結果になったと謝った。再度六〇万でなければだめだと念を押す王翦に、秦王は将軍の「計」を聴くのみだと述べている。この「計」とは漠然とした軍の「計略」というよりは、六〇万という数値をはじき出した「計算」を指しているのだろう。
老将の秦王への忠臣
秦王は、咸陽からわざわざ東の灞水のほとりまで赴き、六〇万の軍を見送った。列伝ではその理由は述べられていないが、灞水を渡ると驪山(標高一三〇二メートルの山岳)があり、その山麓には曽祖父・昭王と、父・荘襄王の陵墓である東陵と廟があった。みずからの陵墓も驪山北麓に建設中であった。秦王は、この東陵の先王廟に王翦と兵士たちを拝礼させ、戦地に向かう決意を固めさせたのかもしれない。
王翦軍はそのあと「関」を出たと記されている。対楚戦なので、この関は函谷関ではなく南の武関であろう。武関であれば、先王二廟は通り道である。
半世紀前の昭王の前二七八年に楚都・郢を陥落させたのは、白起将軍であった。王翦将軍は、昭王廟で同じ秦の内史出身の白起の事績を思い起こし、対楚戦の手本としたのではないだろうか。
王翦は、秦の本土を守る六〇万もの兵士を配下に置いて関外に出すことに、秦王が疑いを持つことを懸念した。そこで、わざと事前に行賞を求め、秦という国家に反する気持ちがないことを示した。王翦は灞水の地で秦王に直接、子孫のために美田(肥えた土地)・邸宅・園池を残したいと訴え、秦王に笑われた。秦王と別れた後は、関所にいたるまで五度も使者を都に送って善田(美田と同じ)を請うた。このときの秦王は、王翦の裏までは読めなかっただろう。