なぜ「松平信康殺害事件」が起きたのか

家康が大活躍している頃、大きな事件に巻き込まれた。松平信康殺害事件が勃発したのである。信康は、家康の嫡男である。

信長が家康を信頼するパートナーと考えていたのは疑いないが、天正7年(1579)9月に信長が家康に嫡男の信康を殺害させたことは、のちの遺恨になったといわれ、本能寺の変に影響したという説すらあるほどだ。家康は信康の殺害を指示されたので、信長に恨みを抱いたというのである。

この事件について考えるため、最初に経過を示すことにしよう。

天正7年8月3日、家康は信康のいる岡崎城(愛知県岡崎市)を訪ねると、その翌日に信康は岡崎城を退去し、大浜城(愛知県碧南市)に入った。

同年8月29日、家康によって、信康の母・築山殿が自害に追い込まれた。家康と妻の築山殿は、不和だったといわれている。築山殿は後述するとおり、武田氏に加担しようとした子の信康と行動をともにしたので、家康との関係が悪化したのである。

その後、信康は堀江城(静岡県浜松市)、二俣城(同上)に移され、同年9月15日に切腹を命じられた。その間、家康は家臣らに対して、以後は信康と関わりを持たないという趣旨の起請文を書かせた。

信康の首は信長のもとにいったん送られ、返却されてから若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に葬られたのだ。

松平信康の肖像(写真=勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「信長の意向に逆らえなかった」という説

次に、信康殺害事件が勃発した事情について、通説を確認しておこう。元亀元年(1570)、家康は領国が遠江国にまで拡大したので、信康に家臣を付けたうえで岡崎城の城主とし、三河国の支配を任せた。家康は複数国の支配を単独で行うのではなく、子にその一部を担当させたのだ。

父が後見のような形となって子に家督を譲ったり、一定領域の支配を任せたりすることは、さほど珍しいことではない。

築山殿は夫の家康と不和だったので、信康の居城・岡崎城に留まり、家康の居城・浜松城に移らなかった。信康の妻は信長の娘の五徳だったが、五徳は築山殿との折り合いが悪く、出産するのは跡継ぎとなる男子ではなく、女子ばかりだった。こうしたことが災いし、天正5年(1577)頃から信康と五徳の関係も冷え切っていたという。

一方、天正3年(1575)から信康は武田氏との合戦に出陣したが、目立った軍功がなかった。信康は武芸に励んだが、一方で些細な理由で人を殺すなど、人格に問題があったと伝わる(『松平記』)。

信康に対する評価は悪いものが多く、その情報はやがて五徳を通じて信長の耳に入った。五徳の十二カ条にわたる書状には、五徳と信康が不仲であること、築山殿が武田氏と内通していることなどが書かれていた。

信長は信康や築山殿に強い不信感を抱き、家康に対して信康と築山殿の処分を要求したのである。家康は信長の意向に逆らえず、泣く泣く指示に従ったというのだ。以上が通説的な見解だろう。

とはいいながらも、後世に成った『松平記』が殺された信康や築山殿を悪しざまに描くのは、二次史料の常套手段にしか思えない。家康による信康や築山殿の殺害を正当化するためである。