「国破れて山河あり」を体現した畠山遺臣の長一族

余談ながら、この籠城戦中、七尾城内から信長に援軍を依頼に出向く僧侶の姿があった。

綱連の弟・孝恩寺こうおんじ宗顓そうせん──のちの長連龍つらたつである。

宗顓は近江安土城まで急いだが、信長と接触する前、石川郡倉部浜近辺に同族の首が並んでさらされているのを見つけた。

取り急ぎ手取川南岸に布陣する織田軍のもとへ赴き、自身の保護と援軍を求めたあと、両軍の撤退を待ってから家族の首を回収したようである。

上杉軍から能登を奪取した織田信長は、天正10年(1582)本能寺の変に横死する。能登は信長家臣だった前田利家としいえ父子が統治することになった。

前田家臣となっていた宗顓は還俗して長連龍の名乗りに改め、織田家・豊臣家が滅びたあとの元和5(1619)年まで数々の武功を立てた。

結果、3万3000石を領する大名級の重臣となり、享年74までの余命をまっとうした。能登畠山家の歴史の多くは、この長一族が系譜の形で書き残すことになるが、戦国当時の史料と見比べて矛盾するところが少なからずある。

自分たちが加担した野心的な下克上を、決裂した遊佐一族らに押し付けたのかもしれない。

謙信と信長の対決は、多くの人たちの歴史を狂わせた。

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