上杉謙信は政情不安定な能登の協力要請に応じることに

謙信は、これに応じるような動きを見せ始めた。

そして同天正4年(1576)4月、能登守護の畠山義慶よしのりが急死した。死因は不明だが、このあと重臣たちが擁立した守護の畠山義隆はまだ少年で、自身の意思を積極的に打ち出した形跡がない。傀儡政権を打ち立てたところから見て、暗殺が疑われる。

同年4年7月、謙信は将軍・足利義昭の使いの者たちに上申した。

先月までに加賀一向一揆と「和睦」を遂げた(同年5月には本願寺と「御一和」を果たしていた)ので、いよいよ「北国衆」を召し連れて「織田方分国」に侵攻し、将軍の「御上洛」を支援するつもりです。(『上杉家文書』)

つまり、本願寺や加賀一向一揆と和睦できたので、北陸の者たちを従えて、信長との対決が実行できると宣言したのである。

当然ながら「北国衆」というのには、越後・越中・加賀の衆だけでなく、能登衆も含まれているだろう。謙信は、この作戦を能登衆には明かしていない。分国と化している越後・越中および作戦に参加している加賀一向一揆勢は謙信が命じれば必ず動員に応じる。だが、能登だけはまだ謙信の支配下にない。

ここに謙信が能登を制圧する戦略を決定していたことを確かめられる。

歌川國芳作「名高百勇傳『上杉謙信』」
歌川國芳作「名高百勇傳『上杉謙信』」、1843~44年(CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

戦国乱世を終わらせるという大義のため能登衆をあざむいた

ここから謙信の戦略が見えてくる。

能登衆が加賀一向一揆と争う上杉軍の「御先手」として遠征している隙に、手薄となった七尾城に進軍するのである。

能登七尾城を制圧して確保した畠山義慶を擁立すれば、能登衆でなおも親織田派の態度を取り続ける者たちを不忠の士として粛清するつもりであっただろう。

史料上明らかなように、謙信は能登を不穏な状態のまま自由にさせる気も、一向一揆と戦う気もなかった。

能登衆との約束を反故にする覚悟が定まっていたのである。

謙信にとって大事なのは、将軍と幕府が機能して、戦国乱世を終わらせることにあった。大義の前に他国を蹂躙する覚悟が定まっていたということである。

かくして謙信は能登に出馬して、諸方面を制圧。七尾城を孤立させたあと、七尾城に攻めかかる。

謙信の「第一次七尾城攻め」である。

だが七尾城はさすがに天下の堅城である。短期間で落とすことができず、能登で年を越すことになった。