近代化のために十進法の通貨体系に変更

しかし近代国家をつくるにはそんなことは言っていられない。

そこで一刻も早く西洋を見習った貨幣制度を設けるべきだと政府に建白書を提出したのが、大隈重信であった。大隈は留学経験もないのに英語と海外の制度を深く学んでいた。西洋の文物や制度をいち早く取り入れた佐賀藩の出身だったからである。

その大隈が海外の通貨制度に詳しい新政府の造幣判事、久世治作(大垣藩出身)と連名で、「両、分などという四進法を廃し十進法の通貨体系を構築すべきだ」という内容の建白書を出したのは、1869年(明治2)3月のことだった。

明治天皇が五箇条の御誓文を出したのは慶應4年3月のことだったから、まだようやく新政府の体制がスタートしたばかりのころである。財政については、御誓文の起草者でもある三岡八郎(由利公正)が新紙幣「太政官札」を発行して、何とか予算不足をしのいでいた時期だ。ちなみにこの「太政官札」の額面も「両」で当然四進法の通貨制度に依存していた。

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明治天皇 ※写真はイメージです

最初の呼び方は「元」だった

これでは欧米列強に追いつくなど夢の夢である。だから十進法の通貨制度を一刻も早く作るべきだと大隈らは意見具申したのだが、興味深いことはこの建白書においては日本の通貨の新名称は「元」になっていたことである。

「円」ではなかったのだ。

では、いつ、どんな事情で「円」になったのか。「いつ」というのは大体わかる。だが問題は「なぜ」がわからないところにある。