日本で初めて作られた「円」硬貨の絵柄はどのようなものだったのか。作家で歴史家の井沢元彦さんは「明治政府が参考にしたイギリスなどの国々では、国王や大統領の肖像画を刻み込んでいたが、当時の日本では朱子学の影響で『お金は卑しいもの』という考えがあり、明治天皇の肖像の代替として『龍』が刻まれた」という――。

※本稿は、井沢元彦『歴史・経済・文化の論点がわかる お金の日本史 完全版 和同開珎からバブル経済まで』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

積み上げられた日本円の硬貨
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江戸時代の通貨制度は四進法

近代国家の経済に必要なのは言うまでもなく通貨である。

明治になっても日本の通貨制度は江戸時代のままで、一両(金貨)=四(銀貨)=四千もん(銅貨)であった。ちなみに1000枚の銅銭の束を一貫文かんもんと呼んで戦国時代はよく使っていた。

そのひもに通していたのが中国製の永楽通宝(永楽銭)である。その重さは一もんめ(3.75グラム)でこれは重さの基本単位でもあった。

現代の五円玉(五円硬貨)も穴あき銭でちょうどこの重さで作られている。かつての制度を記念してのことと私は解釈している。お気づきだろうか、現代の日本のコインでアラビア数字を使っていないのは五円玉だけである。それにしても、なぜ玉(球体)ではないのに「五円玉」と言うのか。

実は定説はない。私は中国の宝石の一種である「へき」の形に似ているからではないか、と考えている。もともとパーフェクトな状態を表す「完璧」とは「傷ひとつ無い璧」のことだ。璧は真ん中に穴の開いたドーナツの形をしており五円玉に形がそっくりである。

また中国では普通の形の宝石のことを「ぎょく」といい、宝石全般を表す「璧玉」という言葉もあるので、中国の故事に詳しい知識人が「五円玉」と言い出したのではないか。江戸時代の日本人、特に知識階級でもあった武士は中国の古典を深く学んでいた。そうした知識人の中には、お金のことを「一両」とは言わずに「一円」と表現する人もいたという。

これは今で言えば「福沢諭吉何枚」というような言い方で、朱子学の悪影響でもあるが、金銭のことを露骨に言ったり書いたりするのはよろしくないという考えが底にあるようだ。金銭は最も身分の低い商人が扱う「卑しいもの」だからである。