日々の人生をどう生きるべきか、政治をどう行うべきか、法とはどうあるべきか、公正とは何か――。そういった手ごわい、だが重要な問いかけに挑戦したい、といった大いなる欲求だ。

また、倫理や正義に関する大がかりな問いかけについて、みんなで意見を戦わせたいという渇望がみなぎっている、という印象も持った。日本の人々が、他の意見を尊重しながら闊達な議論を交わすことに知的興奮やエネルギー、刺激を感じていることは、東京大学での講義からも明らかだ。

実は、当初、日本人は「控えめでシャイすぎるため、米国でのように活発な反応は期待できない」という助言を数多くもらった。その言葉を信じはしなかったが、内心、少し気をもんでいた。

そこで、講義を始めるに当たって、まず聴衆にこの質問をぶつけてみたところ、「ノー! 議論がしたい。みんなで意見を戦わせたいんだ」という答えが返ってきた。講義は、その言葉どおりになった。挙手も絶えることがなく、意見が縦横無尽に飛び交った。他者の意見を尊重しつつも、厳しい反論が行われ、次々と質問が浴びせられた。ああ、日本の人たちも、活発で中身の濃い議論の場を希求しているのだ、と感じたものだ。

米国でも、原書『Justice: What's the Right Thing to Do?』はベストセラーリストに入ったが、日本における「フィーバー」とは違うように思う。

出版社も私自身も、まさか哲学書が「ニューヨーク・タイムズ」紙のベストセラーリストに入るとは予想していなかっただけに、実に驚き、わくわくしたものだが、米国では、(こうした知的な哲学書に)フィーバーは起こりにくい。知識人や哲学者よりも、ロックミュージシャンやハリウッドスターのほうが容易に注目を集め、旋風を巻き起こせるお国柄なのだ。アメリカのポップカルチャーが、社会の性質にも影響を及ぼしているのだろう。