たとえば、知性を重んじ、知らないことを「恥」とする日本文化に対し、米国では、「無知」を恥とせず、抽象的な思考を時間のムダと考えがちだ、という指摘も耳にする。この分析には、一理あるだろう。米国文化が、伝統的に、知的なものよりも「実践的」なものにベクトルが向いているのは確かだ。とりわけ哲学となると、他の多くの国々に比べ、なおさら関心が薄い。こうした傾向は、大昔から米国社会に脈々と流れているものだ。1830年代の米国政治について分析した政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、著書『アメリカのデモクラシー』で、こう指摘している。

「アメリカという国は、哲学的なことにはほとんど時間を割かない合理的な人々の集まりだ」

実践的で、「サクセス」への志向が強く、とりわけ経済的成功を重視する。実践的(プラグマティック)なものに比べて、哲学や知的な事柄には関心を示さない文化。それが米国社会の傾向であり、それは建国当初から変わっていない。

「ひとつのアメリカ」を訴えたオバマ大統領でさえ、ロースクールの教壇に立っていたという経歴から、「知的すぎて一部の国民とコネクトできない」という批判を受けている。他国に比べ、米国社会は、「知的すぎること」を問題視する傾向がある。

人生に意味を与える「伝統」は尊重すべき

数年前、日本で講義した際には、私の唱える「コミュニタリアニズム」に対し、アジアの集団主義という悪い部分を正当化しているという批判も受けた。私は、「共同体(コミュニティー)の価値を無条件で受け入れるべきだ」とか「階層的で権威主義的な伝統に従うべきだ」と主張しているわけではない。(家父長制や専業主婦などの)階層構造が、伝統の名の下で、たとえば女性の権利を否定しているとしよう。私は、その伝統を受け入れるべきだ、などとは決して思わない。