わがままでこらえ性がない性格
だが、伊周らが見苦しかったのは、その後であった。伊周と隆家は出頭を拒否し、伊周の同母妹である中宮定子の御所に立てこもった。このため検非違使に乗り込まれ、隆家は捕えられたが、伊周は逃亡したのである。
いったんは出家姿で出頭した伊周だったが、太宰府に送られる途中、病気と偽って播磨(兵庫県南西部)にとどまると、ひそかに上京し、ふたたび定子にかくまわれた。だが、見つかったうえに出家もウソだったことが発覚し、やっと太宰府に送られている。
栄華を誇った父、道隆のもとで、実績がないのに分不相応な出世を遂げた伊周と隆家の兄弟。甘やかされすぎて、世の中の理不尽に向き合う耐性が身につかず、人望も得られないまま自滅したものと思われる。道長は最大の政敵を退けることができた。
むろん、この時点で道長の政権が盤石になったわけではない。その後、たびたび病に襲われながら、娘を入内させては生まれた皇子を即位させるなど、地道な積み重ねによって政権を固めていった。だが、若くして政権を掌握し、自分より若い政敵を排除できてこそ、長期政権を樹立できたといえる。
その意味では、身内びいきの専横が目に余った道隆が、わがままでこらえ性がない息子を育ててくれたことも、道長政権の長期化に貢献したといえるだろう。