あえて関白にならなかった理由
ところで、道長は2人の兄のように関白の座には就かず、内覧として政権に当たったが、権力を固めるうえでこれが幸いした。権大納言で大臣でもなかった道長を、関白に任じるわけにはいかなかった、という事情もあっただろう。だが、道長は内覧という立場を好都合に感じていたようだ。それは、道長が実を取る人物だったからである。
道長は内覧として、文書を読んでは天皇にアドバイスをすることになった。この職務に関しては、関白とほとんど変わらない。一方、公卿の会議をリードする「一上」は、関白になった場合は兼務できなかった。
道長は関白ではなく内覧の座にとどまったおかげで、天皇に文書を奏上してアドバイスする立場と、公卿の会議をリードする立場の、2つを兼ねることができた。道長はこの立場を気に入って、一条天皇の次に即位した三条天皇から、関白になるように指示されても拒否している。ちなみに、道長はのちに摂政には就任したが、関白には生涯、なることがなかった。
伊周と弟の隆家は道長への敵意をむき出しにしたが、道長自身が会議を主宰する立場を維持していたので、会議の場をとおして彼らに目を光らせることができたのである。
平安最大のスキャンダル
とはいえ、伊周と隆家は非常にやっかいだった。その模様は藤原実資の『小右記』が伝えている。7月24日には、公卿の会議の場で伊周が道長に激しく楯突き、「闘乱」のようだったという。27日には、隆家と道長の従者同士が七条大路で弓矢による「合戦」を引き起こし、道長の側に犠牲者が出た。
こうして一触即発の状況が続いたのち、年が明けて長徳2年(996)を迎えると、長徳の変が起きた。正月14日、伊周と隆家は故藤原為光の家ですごした際、花山院およびその従者たちと乱闘騒ぎを起こし、法皇の従者2人を殺害してしまったのだ。
事件について『栄花物語』には、次のように書かれている。伊周は為光の三女のもとに密かに通っていた。一方、花山院は四女に言い寄っていたが、伊周は、花山院が三女に手を出したと勘違いした。そして、弟とともに従者を連れて花山院を待ち伏せし、院に射掛けて袖を矢で貫通させた――。
『栄華物語』の記述が史実かどうかわからないが、兄弟が花山院の従者たちと乱闘騒ぎを起こし、2人を殺したところまでは史料で確認できる。結局、2人は法皇襲撃に加え、詮子を呪詛した嫌疑や、天皇家にしか許されない「太元帥法」を僧に行わせた嫌疑もかけられ、告発される。
その結果、一条天皇は4月24日、内大臣の伊周を太宰権帥、中納言の隆家を出雲権守へ降格のうえ、即刻配流するように命じた。道長にとっては、なにも手を下さずに政敵が自滅してくれたのだから、これほどありがたいことはなかった。