わずか2歳の長男を亡くす

日本代表のワールドカップ予選にも、何とかスケジュールをやりくりして参戦しました。フランス大会のアジア最終予選は、アウェイも含めてほぼ行きましたよ。もちろん(本大会出場を決めた)ジョホールバルにも。

試合が終わったら、翌日の出社に間に合わせるために、余韻に浸ることなく大慌てで空港まで戻りました。

ジョホールバルといえば1997年ですから、当時の私の役職は人事部長ですよ。本来ならば、仕事そっちのけでサッカーを応援している部下を叱りつける立場だったわけで、本当に洒落にならない話ですよね(笑)。

なぜ、これほどまでにサッカーに夢中になっていたのか?

もちろん、競技そのものが好きだったというのもあります。それとは別に、私が28歳の時に長男を亡くしていたことも、関係していると思っています。

私は25歳で家内と結婚して、翌年に初めての子供が生まれます。けれども、その子はわずか2歳で亡くなってしまいました。ちょうど私が、リクルート事件の対応で忙殺されていた頃です。

朝、起きたら、息をしていなかった――。

幼児性突然死でした。

私もつらかったですが、家内はもっとつらかったはずです。

「心の底から喜怒哀楽を表現できる人間になろう」と決意

2歳の子供って可愛い盛りで、わんわん泣いたかと思うと、不意に屈託のない笑顔を見せるじゃないですか。その喜怒哀楽が、とても美しく尊いものに感じられたんですね。

喜怒哀楽を解放したときの表情って、確実に人を引きつけるんですよ。

一方の自分はといえば、どうだったでしょうか。仕事とはいえ、嬉しくないのに作り笑いをしたり、言いたくもないお世辞を口にしたり……。

いったい自分は、今まで何をしていたんだろうか。そんなことを深く考えるきっかけとなったのが、28歳の時に直面した長男の死だったんです。

おりしも、リクルートが潰れるかどうかという時期でした。社内はもちろん、顧客とも表面的な付き合いではなく、感情を表に出して本気でぶつかり合う。そうすることで、何とか打開策を手繰り寄せることができるのではないかと思ったんです。

宇都宮徹壱『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)

あの日を境にして、私は決意しました。心の底から喜怒哀楽を表現できるような、それこそ子供のような表情ができるような人間になろう――。

もちろんビジネスの世界で、しょっちゅう喜怒哀楽をあらわにするわけにはいかない。でもサッカーの世界でなら、応援しながら感情を爆発させることができるじゃないですか。悔しがったり、絶望したり、時々ブーイングして、勝ったら喜びを爆発させて。

まさにサッカーの世界って、喜怒哀楽そのものじゃないですか。

だからこそ私は、ずっとサッカーに夢中だったんだと思っています。

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