2014年にJリーグチェアマンに就任した村井満氏は、当時経営危機に直面していたJリーグの再建に辣腕を振るった。リクルート出身の村井氏がサッカーの世界に転身したのはなぜだったのか。ノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏の書籍『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)より紹介する――。
「地味でぱっとしない」社会人としてのスタート
「マネジメントの才能は後天的」――。
これはリクルートの創業者である、江副浩正が残した言葉である。
芸術や音楽やスポーツでの天才少年・少女は存在するが、ビジネスの世界に天賦の才能は存在しない、というのが江副の考え。少なくとも、村井満のキャリアを振り返ると、その指摘は驚くほどに符合する。
「凄腕のビジネスパーソン」として、Jリーグチェアマンに迎えられた村井であったが、社会人としてのスタートは実に地味でぱっとしないものであった。
経営者となってからも、屈辱的な失敗を何度か経験している。
リクルートにおける村井のキャリアは、1983年から2013年までの30年間。その間のトピックスをたどっていくと、チェアマン時代に行った決断の「出典元」となるようなエピソードが頻出する。
「異端のチェアマン」によるJリーグ改革を考察する上で、30年にわたるリクルート時代の検証は不可欠。この時代について、村井自身に振り返ってもらった。
東大をはじめ有名大学卒がごろごろいた
日本リクルートセンターに入社したのは1983年、私が23歳の時でした。リクルートに社名変更するのが1984年ですから、その前の年になります。
同期入社は150人くらい。今でこそ誰もが知る大企業ですが、当時のリクルートは、それほど有名ではありませんでした。ですから大卒の新入社員は、そんなにいないだろうと思っていたんです。
ところが実際に入社してみると、東大をはじめ有名大学卒がごろごろいて、しかも個性派揃い。リーダーシップが強いやつもいれば、宴会で引っ張りだこになる芸達者なやつもいて、こんなに癖の強いのをよく集めてきたなと思いました。
新入社員の半数くらいが女性だったことにも、リクルートの採用方針が色濃く表れていたと思います。